岩手県花巻市大迫町大迫

2012/09/08取材

 

この地の稗貫川で、平安時代に砂金が発見されたことで、産金の地として知られていた。中世には花巻を拠点とした稗貫氏の支配下にあったが、江戸時代には南部藩領となり、南部利直は、当時の金山開発のスペシャリストの田中彦右衛門を大迫代官とし、大迫各地の金山開発を行った。

当時は22か所の金山があったとされ、産金地であった名残りは、今も地名に見ることができる。また、鉱夫たちが暮らしたという長屋跡や、遊女たちがいたという女郎端など、地名や言い伝えの中に、往時のにぎやかさがうかがえる。

この地は、盛岡から沿岸に通じる遠野街道が通りその要所でもあり、元和3年(1617)、南部利直は、直線的な新遠野街道を整備するよう命じた。町づくりに当たっては、金山経営で財を成した大信田源右衛門らの力を借り、中居川沿いの道を開拓し、宿場町として整備した。

江戸時代の半ばになると「南部葉」と呼ばれる特産の葉たばこの栽培が盛んになった。刻みたばこの形で江戸にも出荷され、江戸の花魁達に人気があり「南部花魁煙草」と呼ばれ人気を博したという。

慶應元年(1865)、盛岡藩は藩内から産出される鉄の消化を名目に、幕府に対して鉄銭の鋳造を願い出て、翌年、盛岡藩で初めての鉄銭の鋳造所「銭座」が開設された。銭座は、鋳造した銭貨の一定量を幕府に上納する以外は、流通市場に売り払い利益を得られたため、当時の窮乏した藩財政にとって重要な位置を占めた。

明治時代になると、葉たばこの売買で裕福だった大迫商人たちは、製糸産業へ転換、大型機械を購入し製糸工場を創業した。また、地の利を生かした林業や馬産地としても繁栄し、中心部の九日市は、近郷近在から多くの人々が買い物に訪れ賑わった。町内には次々と料亭や旅館が開業し、中でも高級旅館として繁盛した石川旅館は、地質調査等で訪れていた宮沢賢治の常宿でもあった。

しかし明治以降は、主要交通路から外れていることもあり次第に賑わいを失いつつあるが、それでも早池峰観光の拠点として、また「ワインの里」をキャッチフレーズとして、町内産のブドウを用いてワインを生産するなどしている。

平成18年(2006)、石鳥谷町および東和町と共に花巻市と合併し、現在は花巻市の一部となっている。