岩手県花巻市大迫町亀ヶ森

2012/09/08取材

 

宝暦、天明、天保とうち続く大飢饉に際し、農民の窮乏はその頂点に達し、死者が続出する惨状を呈した。この間、再三にわたる代官所への年貢減免の嘆願も取り上げられなかったため、ついに大迫近郊4千の農民が決起し一揆を起こした。

この挙の指導者、亀ヶ森の覚十郎、喜太郎両名は、天保8年(1837)、この地で打首獄門の刑に処せられた。時の桂林寺住職を、その冥福を祈ってこの地に一基の碑を建立し、村人らはこれを天保義民碑と呼んだ。

碑文には以下のようにある

一念能はず萬法過ち無く 心外心無く心身是雄なり

南部藩は、当時の稲作の北限地区でもあり、江戸時代後半は連年凶作に見舞われ、さらに蝦夷地警備などにより藩財政は逼迫していた。南部藩はこれを解消しようと重税を課し、また、藩札を大量発行し経済を混乱させた。

そのような中で、天保7年(1836)から翌年にかけて、盛岡南方一揆が発生、南部藩はこれに対して厳しい弾圧でのぞみ、領民は仙台領に逃散し南部藩を非難した。南部藩は首謀者を処罰しないことを約束し、仙台藩もこの騒動を公にすることなく、一揆衆を南部藩に引き渡したが、その約束は破られ首謀者は処刑された。