岩手県盛岡市新庄町
2017/05/13取材
盛岡城の東方約1kmの地に位置する、比高約15mの丘陵上に位置している。東西約70m、南北約100mの比較的小さな城館であるが、段郭や切岸などの中世の技巧が見られる。現在、主郭跡には盛岡天満宮が祀られている。
中世のこの地は、現在の紫波町の斯波氏の支配下にあり、この館は斯波氏の家臣の居館であったと伝えられる。
斯波氏は足利一門の名家であり、「志和御所」としてこの地の尊敬を集めていたが、応仁の乱後、足利政権の衰微とともに斯波氏も勢力を失い、南進を続ける三戸南部氏の攻勢にされるようになった。
斯波氏は三戸南部氏に対して、稗貫、和賀氏らと結束し南部氏と戦ったが、天文9年(1540)、南部氏は戸沢氏の拠る滴石城を攻略し岩手郡に進出してきた。対する斯波氏も雫石地方に進出し南部氏と対立した。
しかし永禄8年(1565)頃から、三戸南部氏の活発な動きに、斯波氏の勢力は漸次駆逐されていった。そのような状況下の元亀3年(1572)、斯波氏と南部氏は合戦にいたり、戦いは岩手勢を加えた南部方が優勢で、斯波詮元は講和に応じ、南部氏の一族である九戸政実の弟弥五郎を娘婿に迎えた。しかしこの弥五郎と斯波詮元は不和になり、身の危険を感じた弥五郎は、天正14年(1587)脱出し、これが原因で斯波氏と南部氏は再び合戦となり、斯波氏は敗れた。
斯波方を逃れてきた吉兵衛を南部信直は中野館におき、吉兵衛は中野修理と名を改めて信直に仕えた。詮元は稲藤大炊右衛門と長岡八右衛門に手兵三百余騎をさずけて中野館を攻撃させたが、斯波勢は敗れて高水寺城に退いた。その後、南部氏の攻勢により、斯波氏は滴石地方、簗川・滴石川を結ぶ不来方以北の地までを制圧されるに至った。この時期には家臣の中には斯波氏を見限る者も多く出ており、この花垣館も南部氏の支配下になったと思われる。天正16年(1588)夏、 斯波氏の混乱をみた南部信直は、高水寺城に兵を進め、これを落とし、大名としての斯波氏は滅亡した。
その後南部氏は、不来方(盛岡)の地に本拠城を移すことになり、慶長3年(1598)築城を開始した。この頃には、冬季の築城中止時の押えとして三上多兵衛を置き三上館とも称された。この間、南部信直は病没し、その後を南部利直が継ぎ、盛岡城は一応の完成を見、この館はその役割を終えて廃城になったと考えられる。