岩手県矢巾町西徳田第6地割

震災前取材

 

徳丹城(とくたんじょう)は現在の岩手県紫波郡矢巾町徳田にあった律令期の城柵。志波城がたびたび水害を受けていたために、爾薩体(にさたい)、幣伊(へい)を制圧した征夷大将軍文屋綿麻呂(ふんやのわたまろ)が弘仁3年(812)ごろに造営に着手したと思われる。

北上川西岸の低位段丘上に位置し、正方形の一辺は約350メートルと胆沢城(約670メートル)、志波城(短辺約840メートル)と比べ小規模である。外郭は太さ30~40センチの丸太を並べ打ち込んだ木塀で囲まれ、70メートルおきに櫓が設けられていたと思われる。外郭の東西南北に門があり、正面にあたる南門は徳田神社境内にあり、径45センチ以上の丸太を用いた八脚門で瓦葺きだった可能性が高い。

弘仁6年(815年)には配置されていた鎮兵500人が廃止され、正規軍が配置されなくなる。しかし徳丹城自体は9世紀半ばまで使用されていた形跡があり、律令国家に協力的な俘囚の軍が配置されていたと考えられている。

現在は町立徳田小学校の南に隣接し、城跡を国道4号が縦断している。