岩手県野田村玉川

2012/04/01取材

  • 西行屋敷跡
    西行屋敷跡

この地は、玉川海岸近くの丘にあり、西行法師が、この地の美しさに心ひかれ、しばし草庵を結んだところと伝えられる。この地は、歌枕の「野田の玉川」の地とも伝えられている。

夕されば 汐風こして 陸奥の
野田の玉川 ちどりなくなり  … 能因法師

西行は、出家前は佐藤義清と名乗り、藤原秀郷の流れである。家系は代々衛府に仕え、また紀伊国田仲荘の預所に補任されて裕福であった。保延3年(1137)頃は、平清盛とともに鳥羽院の北面武士としても奉仕しており、和歌と故実にも通じた才人として知られていた。保延6年(1140)23歳で出家して後に西行と称した。

「源平盛衰記」には、高貴な上臈女房と逢瀬をもったが「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したとあり、また近世初期成立の「西行の物かたり」には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。

出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲し、天養元年(1144)頃に奥羽へ旅し、また、文治2年(1186)には、東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州下りを行っている。この奥州への途次に、鎌倉で源頼朝に面会し、頼朝に弓馬の道のことを尋ねられたが、一切忘れはてたと答えたと云う。また頼朝から拝領した純銀の猫を、通りすがりの子供に与えたとも伝えられる。

この野田玉川に滞在したのは、この奥州への2度目の旅の途中のことと考えられ、平家一族とは比較的近い立場だったことを考えると、野田の大唐倉に伝えられる「平家伝説」とも、なんらかの接点があったとも考えられる。

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