岩手県八幡平市五日市
震災前取材
別名:五日市城、里城
目名市川と青沢川の間の丘陵先端に位置し、比高は約30mで、安比川が南面崖下を東へ曲流している。南方の岩手郡方向や西方の鹿角郡方向に向かっては、旧街道や渡河点を扼する緊要の地となっている。
主郭は、東西約200m、南北約90mあり、その北側と東側には複数の小郭が配され、それぞれが深さ10m以上の深い空堀で区画されている。また北西部の尾根筋にも空堀が設けられている。
縄張は、鉄砲が普及する戦国末期の築城技術が導入されており、現在見られる遺構は、旧来の小規模城館を改修したものと考えられる。
この地域は、中世時期には浄法寺氏が支配しており、この城館は浄法寺氏の支城として、その家臣の五日市左近の居館だったと伝えられる。
浄法寺氏は源頼朝の信頼が厚かった畠山重忠を祖とする。畠山氏は、鎌倉の将軍後継を巡る争乱に巻き込まれ、この時、三男の畠山小次郎重慶が陸奥浄法寺に逃れ、浄法寺氏の祖になったとされる。浄法寺氏は、二戸郡の安比川流域を支配していたが、その後次第に三戸南部氏に押され、三戸南部の被官になっていった。
それでも戦国期には、三戸、九戸、八戸と並ぶ南部勢力の有力者であり、糠部から鹿角に通じる要衝を押さえていたことから「鹿角の大将」とみなされていた。
この時期、南部氏は比内を巡り安東氏と争っており、浄法寺氏は南部方の武将として活躍し、鹿角街道を抑えるこの五日市館の重要性が増し改修されたものと考えられる。
浄法寺氏は、九戸の乱ではしばらくその去就を定かにはしていなかったが、南部信直が豊臣の軍を引き込むことに成功してからは信直の側につき、九戸の乱後も南部の大身としてその勢力を維持していた。
浄法寺重好の時代の慶長5年(1600)の和賀兵乱の際に、重好は兵120を率いて参陣した。南部利直は積雪の時期に入ったため一時休戦にして、和賀には浄法寺重好を置き、三戸に帰ったが、重好は戦陣の規律を破り、ひそかに居館に帰った。このため慶長8年(1603)、知行家禄屋敷を没収され、重好は蟄居となり浄法寺氏は断絶した。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の一国一城令により浄法寺城も破却され、そのとき五日市館も廃城になったと思われる。
現在、館山の麓に地元の方の墓石があり、碑文に、九戸の乱に敗れ、撫で斬りにされた生き残りの櫛引氏の一族が、この地に住みついたことが記載されている。櫛引氏の一族は、この地で亀のようにひっそりと、硬く防備を構え潜んだのだろう。