岩手県奥州市江刺区南町

震災前取材

 

明治維新を期に、西洋医学の導入と病院建築の機運が高まり、明治2年(1870)以降の伊勢参宮者から、1円づつの献金と寄付金を受けて、2千円余りの資金で建築が始められ、明治7年(1875)岩谷堂共立病院として完成した。院長は旧白河藩士で江戸で蘭学を学んだ横田信行を迎え、一般医療と共に郡内漢方医師再教育の医学所でもあった。診療体制は、診療方と調剤方と、医薬分業による近代的な体制で、翌8年正式開院となった。しかし、広く出張診療までしたが資金不足から経営は極度に窮迫し、閉鎖されたようだ。

明治21年(1888)から39年(1906)までは、磐井治安裁判所岩谷堂出張所の庁舎として利用され、その後は岩谷堂小学校や岩谷堂町役場、江刺市役所庁舎などとして使用され、町、市民から親しまれた。太平洋戦争末期の昭和19年(1944)、東京から疎開した作家の菊田一夫のラジオドラマ「鐘の鳴る丘」のモチーフになったといわれている。

建物は六間四面の一階に、中二階を含めた四階及び塔屋から成る凝洋建築物である。建築史的、文化的価値の高い遺構として昭和54年(1979)、岩手県指定有形文化財に指定された。