岩手県一関市千厩町千厩字下駒場

震災前取材

 

千厩の地は、奥州平泉藤原三代が私牧を開いたことから、古くから名馬の産地となった。

藤原秀衡の愛馬「淡墨」はこの地の産と伝えられている。治承4年(1180)、秀衡は、源義経が平泉を出立する際に、この「淡墨」を贈った。

義経は、この馬とともに平家の軍勢と戦い、「ひよどり越えの逆落とし」もこの馬で敢行した。義経は平家討伐の功により五位之尉に任官した時、馬にも仮に五位の位を与え、「淡墨」は「太夫黒」と呼ばれた。

元暦2年(1185)の屋島の戦いで、佐藤継信が義経の身代わりとなって戦死したとき、その菩提を弔うため志度寺に太夫黒が寄進された。しかししばらくすると姿を消してしまった。寺の者達がほうぼうを探したが見つからなかった。しばらくして、継信の墓に寄り添うように倒れているのが見つかった。
しかし、首も上げられないほどに弱っており、夜に降った雨のせいか体も冷たく冷え切っていた。首のあたりを二度、三度撫でてやると、太夫黒の目からはらはらと涙がこぼれ、そのまま息を引き取った。
これを哀れに思った寺の者たちは、継信の墓の傍らに太夫黒を埋めて弔ったと伝える。
太夫黒の墓は、四国の香川県牟礼町の佐藤継信墓苑内にある。