岩手県一関市大東町猿沢字野田前

震災前取材

 

観福寺は、建久2年(1191)、工藤祐経の長男犬房丸が寺を建立したと伝えられる。

工藤祐経は始め平重盛に仕え、後に源頼朝に従った。所領を横領し、妻を奪った工藤祐親を襲い、長男の河津祐泰を殺害したが、後に祐泰の子の曾我兄弟に殺された。これが有名な曽我兄弟の仇討である。この場に居合わせた犬房丸は、父親を討った兄弟の弟の曽我五郎が赦免される様子に憤慨し、五郎を扇で打ち、源頼朝にその処分を泣いて頼み、このため曽我五郎は斬首され、犬房丸はさらなる仇と曽我一族に狙われた。犬房丸は梶原景時の世話で大和の庄に隠れ住み密教に帰依したと云う。

この曽我兄弟の仇討事件は、後に『曽我物語』としてまとめられ、江戸時代になると能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられ、民衆の人気を得た。このためか、犬房丸に関しても伝説が各地に残っている。

観福寺は天台密教の寺で、大変特徴的な、観音堂へ登る石橋を伴った、四方懸崖造りの観音堂がある。この地は古くからの霊場になっており、裏山一帯には磨崖碑や石仏が置かれている。

また、この寺には衣川館をひそかに脱出し北行する源義経が一夜の宿を取ったという伝説が伝わっており、そのとき義経の四天王の一人である亀井六郎重清が残したという笈が伝えられている。