震災前取材

岩手県平泉町平泉字柳御所…義経堂境内

頼三樹三郎詩碑

 

平泉義経堂の脇に、頼三樹三郎の詩碑がひっそりと立っている。

三樹三郎は、「日本外史」で有名な頼山陽の第三子で、名は醇(じゅん)、三樹三郎は通称。父山陽に教えを受け、また昌平黌で儒学を学んだが、徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の石灯篭を破壊するという事件を起こして退学処分とされた。勤皇の志が堅く、幕府の朝廷に対する軽視政策に異議を唱えて行なった行動であると言われている。

その後、東北地方から蝦夷地へと遊歴した。当時、一関の大槻家と頼家とは、学問の家系として「西の頼家、東の大槻家」と並び称されており、大槻玄沢の次男の大槻磐渓が西国遊歴の折には、頼山陽からその才を高く評価されていた。そのような関係からか、一関周辺には三樹三郎の足跡が多く残っている。しかしながら、その後、大槻磐渓は仙台藩で開国派として奥羽越列藩同盟に奔走し、頼三樹三郎は尊王攘夷運動に突き進んでいくことになる。

三樹三郎は詩文に優れ、この地に詩碑を残した。この詩は、弘化3年(1846)、平泉を訪れたときに、「平泉落日」の感動を詠んだもので、またこの碑は、三樹三郎22歳の、雄渾な筆使いをのこす形見でもある。

嘉永6年(1853)にペリーが来航すると、一気に政情不安となり、尊皇攘夷運動が高まりの兆しを見せ始めた。安政5年(1858)に将軍後継者争いが勃発すると、尊王攘夷推進と徳川慶喜擁立を求めて朝廷に働きかけたため、大老の井伊直弼から危険人物の一人と見なされ、同年、安政の大獄で捕らえられ、翌6年、35歳で小塚原刑場の露と消えた。

この詩の要約は次のとおりである。

小舟を仕立てて北上川を遡った。藤原全盛からの600年は一瞬の夢の間である。判官館や衣川のたたずまい、義経と頼朝、平泉と鎌倉の悲しい間柄。そしていま三代100年の豊土山川がいたずらに荒れ果てて、ただ義経主従の操立てのみが悲しくよみがえる。草木狐兎までが鎌倉になびいた歴史の浮き沈みのはかなさ。夕日の影は古塔のあたりにかげり落ち、ひとしお物寂しい。

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