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福島県下郷町湯野上字居平甲

震災前取材

  • 山門
 

小野観音堂は、眷属仏堂として、文化10年(1813)、この湯野上出身の大雄得明和尚が、3年にわたり托鉢し浄財を募り、小野岳山頂に祀られていた白髭大明神の本地仏十一面観世音菩薩をこの地に遷し建立したもの。

眷属とは、狐や蛇、龍神、山犬、猿などを言い、古くから眷属神として崇められていた。この地の小野岳やこの観音堂には、様々な伝説が伝えられており、それらは山での狩猟が関わっていると考えられ、山での生活の中で、古くから信仰の対象になっていたと思われる。

この地の伝説とほぼ同様のものは奥羽各地にあり、その元は「日光山縁起」であると思われる。伝説中の有宇中将や朝日長者、猿丸太夫は、二荒山信仰との関わりがあると考えられ、また、小野氏の祖とも云われる。小野氏は、陸奥小野郷や出羽との関わりが深く、二荒山信仰の奥羽への広がりと、小野氏の奥羽での動きとともに、これらの伝説が各地に広まったものと考えられる。

 

・朝日長者の伝説

昔、この地の小野岳の頂上には朝日長者が居をかまえており、この地一帯を治めていた。その頃、都では有宇中将が天皇の側に仕えていたが、讒言のために退けられ、官職を奪われ奥州に下り、朝日長者のもとへ身を寄せた。

長者には夕日姫という美しい娘がいたが、中将が逗留している間に恋仲となりついに一子をもうけた。長者は、都の名門の有宇中将の子孫ができたと大喜びし、その孫をたいそう大事にした。

しかし有宇中将のもとに、都の父親が病気であるとの知らせが入り、必ず帰ることを約束し、信仰していた観音像を娘に託し、都へ旅立った。姫は来る日も来る日も中将の帰りを待っていたが、不幸にも中将は、都よりの帰り道、越後で急病を得て亡くなってしまった。

中将が亡くなったことは、しばらくして風の便りでこの地にもたらされ、姫は嘆き悲しみ、ついに中将のあとを追ってしまった。娘を亡くし、乳飲み子を残された長者はなす術も無くほとほと困り果て、観音像に祈るばかりだった。

間もないある日、長者の下へ小菊という女がしばらくの宿を乞うた。小菊は、腹をすかして泣く乳飲み子を見ると自分の乳を与えた。長者は喜び、しばらくとはいわず、このまま屋敷に長く居てくれるように小菊に頼んだ。

小菊はまめまめしく仕え、母のように子に乳を与えいたわるので、長者も小菊を我が子同然に可愛がった。そうこうしているうちに1年が経ち、子も乳から離れた。

小菊はある日、長者に言うには「私は先にあなた様に救われた小野岳に棲む母猿です。そのご恩をいつか返そうと思っていたのですが、赤子を抱えて困っておられると聞いて参りました。これで私の役目も終わりましたので、一族のもとへ帰らせていただきます」と言い、山へ戻っていった。

長者はこの母猿に感謝し、子の名を猿丸と名づけ、これもみな観音様のおかげと観音堂を建立し、有宇中将と朝日姫の供養をしたと云う。

 

・猿丸太夫の伝説

むかし、この地に猿丸太夫という長者が住んでいた。その頃、小野岳には鹿や熊などたくさんの獣が棲んでおり、長者はこれらの獣を狩り、毛皮をなめし遠く都へ売っていた。長者は儲けのために獣を獲り、ますます富を膨らませていた。

この太夫には一人の娘がおり、その娘はたいそう心根が優しく、常々父の殺生に心を痛め、止めさせられないものかと考えていた。ある日、娘は何事かを心に決め、父のはいだ鹿の毛皮を被り山へ入った。それを知らない父は、いつものように狩に出て、それを娘とは知らずに弓矢を射た。太夫は倒れた鹿に駆け寄り、それが我が娘であることに気付き愕然とした。娘は命に代えて、父の殺生を止めさせようとしたのだった。

猿丸太夫は嘆き悲しみ、それ以後は殺生稼業をやめ、小野岳の頂きに観音堂を建て、娘の冥福を祈り続けたという。

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