福島県天栄村大里字向館
震災前取材
牛ヶ城は、竜田川北側に突き出した半島状の比高約50mの武隈山に築かれた山城。尾根の続く西側を堀切とし、他の三方向は急斜面で、最高所に本郭を置き、四段の郭を丘陵上に配している。また西尾根上にある、「天栄村ふるさと伝承館」の位置には出丸があったと考えられる。
東側が大手口だったと思われ、東側に開いた谷戸部内には大小の段郭が配されている。最高部に東西約50m、南北約30mの本郭があり、その南側に一段下がって二郭が配されている。周囲は急勾配の切岸で、何段かの腰郭が配されている。
北側の「天栄村ふるさと文化伝承館」のある台地とは、自然地形を利用した深い堀切で断ち切られ守られている。「伝承館」の周辺にも、段郭状の地形が見られるが、後世のものかもしれないが、出城があったと考えられる。
牛ヶ城は、天正年間(1573~92)、須賀川二階堂氏の家臣矢田野阿波守によって築かれたとされる。
天正18年(1590)、葦名氏を滅ぼし、二階堂氏を破り、南奥をほぼ手中にした伊達政宗は、秀吉の小田原征伐に参陣するために、主だった家臣団を引き連れて小田原に向かった。
これを機会に、矢田野阿波守や二階堂氏旧臣らが牛ヶ城に籠り反旗を翻した。政宗は、二階堂氏の旧領を領した三芦城の石川昭光に鎮圧を命じた。
石川昭光は、伊達政宗の叔父にあたるが、それまでの佐竹氏との関係から、人取橋の戦いや摺上原の戦いでは、二階堂氏と同じく佐竹氏に与していた。しかし、伊達政宗がそれらの戦いを制し、南奥に勢力を拡大すると、伊達氏と行動を共にするようになった。
伊達勢は、石川軍を中心に、伊達、柴田、信夫、苅田の人数が援軍となり、牛ヶ城を包囲した。しかし、城はなかなか落ちなかった。政宗は、片倉景綱、伊達成実ら伊達軍の主力を投入し力攻めにしたがそれでも落ちず、水郭を押さえ、水の手を絶った。
しかし、その直後から雨が降り続き、城兵は水に困ることはなく、また水郭は城兵によって度々夜襲を受け、城兵の意気は上がり、伊達勢の士気は下がる一方だった。
そのうちに小田原の陣も終わり、政宗は秀吉に帰属し、会津など南奥の地をすべて返納することを受け入れざるをえなく、浅野長政の仲裁により伊達勢は兵を退いた。
矢田野阿波守は、豊臣秀吉から所領安堵の約束を得ていたが、この地は会津に入った蒲生氏郷が支配することになり、約束は反故にされた。矢田野阿波守は結局佐竹氏に仕え、佐竹氏が秋田に転封になると、矢田野氏も秋田に従った。