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福島県棚倉町棚倉字城跡

  • 城址入口

別名:亀ヶ城

戦国末期、このあたりは常陸の佐竹氏の勢力範囲で、その当時のこの地の拠点は赤館だった。関ヶ原後、西軍に与した佐竹氏は秋田に減移封され、慶長8年(1603)に立花氏が、元和8年(1622)に丹羽長重がこの地の赤館に入封した。

丹羽長重は、それまでの山地の城を避け、棚倉盆地の中央にあった都都古別神社を遷宮し、寛永2年(1625)棚倉城の築城を始めた。しかし寛永4年(1627)、丹羽氏は白河へ移封となり、高槻より内藤氏が五万石で入封した。以後、内藤-太田-松平(越智)-小笠原-井上と棚倉へは徳川譜代大名が封ぜられた。

天保7年(1836)、石見浜田より松平(松井)康爵が六万石で入封した。これは、竹島を利用した密貿易が発覚した為の国替え左遷であった。慶応2年(1866)、松平康英は武蔵川越へ移り、代わって白河から阿部正静が十万石で入封したが、すでに明治維新の直前だった。棚倉藩は奥羽越列藩同盟に加盟したため、慶応4年(1868)に勃発した戊辰戦争で、板垣退助の率いる官軍800名の攻撃を受け、わずか1日で落城した。

棚倉城は、久慈川の河岸段丘上に築かれた城で、本丸を二の丸が取り囲み、更に二の丸北側に三の丸を配した典型的な輪郭式縄張りとなっている。二重の堀を巡らせ、土塁で囲まれているが、西側には石垣を用いている。本丸は東西約60m、南北約80mで、それぞれの虎口には内枡形が形成されている。また本丸には4隅に二重櫓があった。

棚倉城の本丸水堀はかなり幅は広いが木橋は使用されずに、すべて土橋で接続していた。二の丸のほとんどは現在住宅地になっているが、西側の棚倉中学校との境に長大な石垣が残っている。