福島県棚倉町

2014/08/18取材

  • 棚倉町案内板
 

棚倉の地は、比較的早い時期に中央政権の支配下に入ったと考えられる。二柱神社の伝承によると、延喜年間(901~923)に、常陸からの入植者が久慈川をさかのぼり定着したと伝えられる。

鎌倉期には伊達氏の影響下にあり、室町期には佐竹氏の影響下になった。戦国末期に伊達氏と佐竹氏が争い、伊達政宗が南奥をほぼ制圧すると、石川昭光は伊達氏の支配下となった。

その後、豊臣秀吉の奥州仕置きで、伊達政宗が岩出山に移封されると、石川氏は伊達氏に従いこの地を去った。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで佐竹義宣は、西軍の上杉氏寄りの態度を示していたため、戦後に出羽国秋田藩へ減移封され。棚倉一帯は天領となった。

慶長8年(1603)、立花宗茂が棚倉に1万石で入部し、棚倉藩が立藩した。宗茂は、関ヶ原の戦いでは西軍に属し大津城攻撃などで活躍したが、戦後は浪人の身となっていた。しかし宗茂は武名も高く、その人となりから多くの大名から仕官に誘われていた。徳川家康もそのうちの一人で、宗茂を再び大名として取り立てたといわれる。

元和6年(1620)、宗茂は旧領の筑後柳河藩へ国替えとなり、元和8年(1622)丹羽長重が常陸古渡藩から5万石で入部した。寛永2年(1625)、長重は棚倉城の築城を開始し、上方から商人を招き入れ、城下町の建設に尽力した。また、輸送業などに力を注ぎ藩財政の基盤を敷いた。

寛永4年(1627)、棚倉城が完成すると、丹羽長重は白河へ加増移封となり、譜代大名の内藤信照が5万石で入った。信昭は、藩領の検地をおこない支配体制を固めた。

その後、棚倉藩は、中級、下級の譜代大名の懲罰的な目的での転封の対象地になり、領主は目まぐるしく変わる。宝永2年(1705)太田資晴、享保13年(1728)松平武元、延享3年(1746)小笠原長恭、文化14年(1817)、井上正甫、天保7年(1836)松平康爵、慶応2年(1866)阿部正静と変わり幕末に到る。

戊辰戦争では、阿部正静は藩兵を率い奥羽越列藩同盟に参加、白河口において奮戦した。しかし慶応4年(1868)6月に棚倉城は落城、正静は降伏し、明治4年(1871)、阿部正功のとき廃藩置県により廃藩となった。