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福島県石川町曲木字仲ノ内…光国寺境内
2011/09/04取材
この石川町曲木には、和泉式部の出生の地であるとする伝説が多く伝えられる。
和泉式部は、平安時代中期を代表する女流歌人で、「和泉式部歌集」には1540首が収蔵され、「拾遺和歌集」はじめ、勅選集には247首ほどが載っており、特に恋愛歌においては、多くの名作を残している。
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
この地の伝説では、天元2年(979)、和泉式部は安田兵衛国康長者の一人娘として生れ、幼名は玉世姫とされる。国康夫婦は長く子宝に恵まれなかったが、国康が40の坂を超えたころ、亡くなった母が夢に現れ、「二所の関の観世音に参籠祈願せよ」と伝えた。夫婦は夢のお告げの通り観世音に参詣したところ身ごもり、満願の日に女児が生まれた。
夫婦はこの娘を玉世と名づけ、大変いつくしんだ。玉世は成長するにつれ美しく、そして才長けた娘に成長した。玉世が十三歳のとき、京に上らなければならないことになった。玉世は縁があり、大友久呂主卿の養女となり、名も和泉式部と改めた。
京でもその才をあらわし、特に式部の詠む歌は多くのものの心を打った。あるとき、式部の詠んだ歌が、阿波の鳴門の鳴動を静めたと云う。この功績により、内裏への昇殿を許され、歌所の頭人となったと伝えられる。晩年はこの地に戻り、その生涯をとじたとも伝えられている。
また、京に上った理由が、父親が亡くなった後、叔父に預けられ、その叔父に、塩三駄で売られたと云うものもある。
光国寺は、和泉式部の祖父の掃部国光が亡父の尊霊菩提のため建立したと伝わり、またこの和泉式部堂は、里人らが和泉式部の徳を褒め称え、またその才にあずかりたいと願い建立したものと伝えられる。