福島県石川町下泉

2011/09/03取材

  • 石都々古和気神社鳥居
 

別名:石川城

仙道の六大将の一 人の石川昭光の居城がこの三芦城である。城跡は、石川町役場のすぐ南西の、比高約50mの愛宕山の東側先端部に築かれている。城跡には、石都々古和気神社が鎮座している。

現在、神社の社殿がある位置が主郭跡で、80m×30mほどの広さがある。西側には高さ4mほどの土塁があり、土塁は北側に続き、その先に狼煙台があったとされる。

東側は現在神社参道になっており、こちらには勾玉石や船形石、屏風岩など巨石があり、石門と呼ばれる石もあり、地形から搦め手口だったと考えられる。

主郭跡から尾根伝いに西側に進むと大規模な堀切があり、先の西館と区画している。西館跡にはいくつかの平場があり、尾根はさらに延びている。さらに進むと、南側に階段状に墓地があり、その墓地を囲むように南に尾根が延びている。その先が愛宕台と呼ばれており、郭跡と思われる。

地形から考え、大手口はこの墓地側にあったと考えられる。主郭に至るには、段郭のあった墓地から、東に愛宕台、北に西館を臨みながら尾根に出て、西館を通り、大堀切を越えて主郭に至ったものと考えられる。

平安時代後期に石川有光がこの地に館を築いたのが始まりであるといわれる。有光は清和源氏の出で、大江山の鬼退治で有名な源頼光の弟頼親の孫にあたり、はじめは摂津に居住していた。永承6年(1052)、前九年の役に際して有光は、父頼遠と共に、源頼義、義家父子に従い、安倍氏追討に加わった。その功によりこの地を賜り、康平6年(1063)、この地に下向し名を石川有光と改めた。

有光は、当初は藤田城を居城としたが、承保年間(1074~77)、今出川が東より南を巡り、巨石が重なる自然の要害の地のこの地に三芦城を築城し、その後石川氏25代、約530年間の居城となった。この築城については次のような伝説がある。

藤田城は水の便が悪く、有光は新城の地を探していたが、源氏の守り神の八幡の神に日夜祈りを奉げた。するとある夜、夢の中に芦の三本生え茂るところに清水が湧き出している夢を見た。翌朝山に登り、芦のあるところを探すと、松の小枝をくわえて舞い遊ぶ鶴を見た。鶴は突然小枝を落とすと、そこは夢に見た地と同じように、三本の芦が生えておりきれいな清水が湧いていた。有光はこれは啓示であると喜び、ここを居城に決めたと云う。有光はこの三本の芦にちなみ三芦城と名づけたと云う。

石川氏は、鎌倉初期にはすでにこの地に深く根付いていた。しかし、鎌倉幕府が開かれると、安閑としていることも出来ず、頼朝の奥州征伐の際には、一族の大寺光行を従軍させた。頼朝は「これを旗印にせよ」と自らの矢羽を取って渡したという。以後、この矢羽が石川氏の旗印となる。

鎌倉期に入ると、幕府に御家人として仕え、七代石川広季は、結城朝光の娘を夫人に迎え、嗣子の光貞の夫人には北条泰時の娘を、娘の千賀を足利長氏の夫人にするなど、幕府有力御家人との縁を深めていった。また北条高時に名馬を献上するなど、中央との関係を深めた。

しかし、元弘3年(1333)、石川義光は新田義貞の挙兵に応じて後醍醐天皇側につき、白河結城氏とともに活躍した。義光はその後南朝方として西日本を転戦し、比叡山麓で討ち死にした。しかし石川氏は当主を失う犠牲を払ったにもかかわらず、領地の一部を召し上げられ、白河の結城氏に与えられた。

このため石川氏は領地奪還をはかり白河結城氏に対抗、その後は北朝方に加担した。この騒乱の中で、建武2年(1335)には、一時、白川城を攻略するほどの勢いを見せたが、しかし、結城氏も後に北朝方に転じたため、それ以後、再び白河結城氏に圧迫されるようになって来る。

正長元年(1428)には、十八代義光は結城氏朝に攻められて殺害された。石川氏は、稲川御所満直と鎌倉公方持氏の協力を得て、笹川御所満貞と結んだ結城氏朝と戦ったが勝負は付かず、結城氏の圧迫を跳ね除けるにはいたらなかった。

その後も結城氏の度重なる圧迫に対して、伊達氏の後ろ盾を得て、かろうじて耐えているといった有様であった。しかし、佐竹氏が北進し結城氏を圧迫し始めると、結城氏は次第に勢力を失っていき、石川氏は佐竹氏に属することで、結城氏の圧迫から逃れることができるようになった。

永禄11年(1568)、時の当主の二十五代石川晴光には嗣子がなく、伊達家から輝宗の弟で政宗の叔父に当たる昭光を養子に迎えた。しかし昭光はそれまでの流れから佐竹氏に属し、葦名、二階堂、結城、岩城氏らとともに伊達氏と対峙するようになった。

天正12年(1584)の人取橋の戦いや、天正16年(1588)の郡山合戦では、石川昭光は佐竹義重に従って、反伊達連合側として参加した。しかし伊達氏はこれらの戦いを乗り切り、さらに仙道地域に勢力を拡大したことから、伊達氏との因縁が深い石川氏は佐竹氏を離れ、伊達氏の傘下となっていく。

葦名氏を摺上原に破り、さらに須賀川の二階堂氏を破った伊達氏は、北進を狙う佐竹氏と本格的に対峙することになり、石川領は、両勢力の最前線となった。伊達政宗は、叔父である昭光に二階堂氏の居城を託した。

天正18年(1590)、豊臣秀吉は奥州各地に小田原参陣の命を発したが、昭光は天栄村で起きた伊達氏への反乱鎮圧に忙殺され、対応を政宗に託し小田原への出陣を断念した。このため秀吉は石川氏を伊達の被官として石川氏の領地は没収された。

三芦城はこのとき廃城になったと思われ、昭光は政宗を頼った。その後石川氏は、伊達氏一門筆頭として、角田に2万3千石を領することになり、そのまま角田で明治を迎える。

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