福島県白河市松並
震災前取材
旧奥州街道沿い白河市松並の白河口の戦い会津藩戦没者の墓域にこの墓はある。明治17年に建立された「招魂碑」には、会津藩士三百四人の名が刻まれている。その陰に隠れるように、「田辺軍次君之墓」と大書された石碑がある。
田辺は会津藩士であり、この地で戦死した横山主悦の近習だった。慶応4年(1868)5月、田辺は他の会津藩氏と共にこの地で戦った。多くの会津藩士がここで討ち死にしたが、田辺はかろうじて生き残った。その後は、会津落城まで戦い抜き、戦後は斗南へ移った。
会津松平家は、二十八万石の領地を没収され、明治2年(1869)、青森県下北半島を中心に三万石で家名再興を許された。それが斗南藩である。しかし斗南は寒冷不毛の土地で、実収は七千石しかなく、移住した人々は困窮を極めた。実質的には「挙藩流罪」だった。
白河口での戦いで田辺ら会津勢と戦ったのは薩摩隊だった。このときの隊長は後の海軍卿の川村純義だった。川村は、奇襲攻撃を成功させるために、間道の案内役を探した。それに応じたのが、白坂村の郷士の大平八郎だった。大平の道案内で薩摩隊は暗いうちに会津勢の守る陣に近づき、中央地域の戦闘に耳目が集まった間隙を突いて一気に肉薄した。
維新後の大平八郎は大変な羽振りだった。大平は、新政府から功績に対する感謝状をもらい、白坂村の「人馬継立取締役」という宿場の責任者のような地位に任じられた。大平はことあるごとに「鎮台日誌を見ろ」と自慢していたという。しかしその自慢が、遠く斗南の会津藩士に、「あの大敗北の元凶は大平八郎である」と知らしめることにもなった。田辺軍次が大平八郎への復讐を誓ったのも、そのためだったろう。
田辺軍次が斗南を旅立ったのは、明治3年(1870)7月だった。相当にうす汚れた姿だったらしい。「斗南の侍は乞食みたいだ」と言う人もいたそうだから、この時の田辺も乞食が刀を差している、そんな風体だったのだろう。田辺は白河に入り、白坂村近くで、行き会った商人に道をたずねると、その商人は薄汚れた田辺をさげすんだような口をきいた。怒った田辺は商人に斬りかかり、謝る商人に対して、宿場の責任者である大平八郎が代わって謝るなら許してやる、と脅した。
大平を誘い出すことができた田辺は、ゆっくり話しを聞こうということで、以前は会津藩の定宿だった鶴屋に上がり、そこで自ら名乗り大平に斬りつけこれを殺害した。だが、田辺も手傷を負い自決した。享年21歳の青年だった。
最初に田辺の墓を建てたのは大平八郎の養子の直之助だった。直之助は義父の敵でもある田辺を義父と共に手厚く葬ったという。田辺の二十七回忌にあたる明治29年(1896)、白河会津会が、田辺を顕彰するために「田辺軍次君之墓」を建ててこの地に改葬した。