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福島県白河市松並

震災前取材

  • 会津藩戦死墓、会津銷魂碑
 

陸奥と関東の境にあたる白河市は、戊辰戦争の折、東西両軍の激突する激しい戦場となった。慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は、薩摩、長州、大垣藩等が主体となる新政府軍が会津藩、庄内藩征討のために東進した。

この新政府軍に対し、会津藩赦免嘆願で結束を強める仙台、棚倉、福島、二本松藩などの奥州同盟軍は白河に集結した。この時、白河藩主阿部氏は棚倉に国替えになった直後で、白河藩領は幕府直轄領、小峰城は藩主不在の空き城であった。戦争直前の閏4月20日、会津藩は小峰城に兵を入れ、東軍諸藩も小峰城に集結した。

最初の戦いは閏4月25日、奥州街道沿いの九番町口稲荷山で戦われた。攻める薩摩、長州、大垣藩の西軍を、会津藩、新撰組などの東軍が敗退させた。

しかし、4日後の5月1日、西軍は九番町口、原方口、桜町口の三方向から進軍し、圧倒的な火力の差で東軍を白河城下から敗走させた。この戦いは城下全域にわたって繰り広げられ「大戦争」と呼ばれ、多くの戦死者を出した。戦死者は東軍約700人、西軍約12人と西軍は東軍を圧倒した。この大戦争により、白河城下は、西軍に占拠された。

その後の5月から7月まで、東軍は白河を西軍から奪取しようと数回にわたりゲリラ的に攻撃を仕掛けたが、いずれも敗退した。この100日間にわたる白河口の戦いで、戦死者は西軍と東軍の両軍あわせて800人を超えた。