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福島県磐梯町磐梯

 

この宝篋印は乗丹坊の供養塔である。乗丹坊は、平安時代末期の僧で、陸奥会津慧日寺の衆徒頭だった。

この宝篋印塔は高さ約2.7m、台石には美しい形の格狭間を表し、塔身の四面には薬研彫りによる梵字が刻まれている。笠には隅飾突起があり古い形式を残している。

当時の慧日寺は、寺僧300、僧兵数千、子院3,800を数えるほどの隆盛を誇っており、中世以前の会津地方を宗教面から実質的に支配していた。

武士が台頭してきた平安時代後期、越後の城氏が会津に進出し慧日寺勢力と結び、当時会津仏教のもう一つの大勢力の高寺勢力を駆逐した。それ以来、慧日寺と城氏は深い関わりをもつようになった。

承安2年(1172)、城資国の妹の竹姫が乗丹坊に嫁ぎ、そのとき越後の小川荘(現在の新潟県北蒲原郡)が慧日寺領に寄進されたと伝えられる(異説あり)。また、乗丹坊は「城丹坊」と記載されているものもあり、越後城氏の一族という説もある。

治承4年(1180)、以仁王が平家追討の「令旨」を全国に雌伏する源氏に発すると、源氏と平家の争いが表面化し始めた。治承5年(1181)、木曽義仲が挙兵すると、平家方の城助職は木曾義仲追討のため信濃国へ出陣し、乗丹坊も会津四郡の兵を引き連れて助職の援軍として出陣した。

城助職、慧日寺勢は、大軍を率いて信濃国に侵攻し、川中島平南部の横田城に布陣した。それに対して義仲は上州に隣接する佐久郡の依田城を拠点とした。義仲勢の井上光盛は、平家の赤旗を用いて千曲川を渡河し、城本軍に近づくと赤旗を捨てて源氏の白旗を掲げ奇襲を行った。これをきっかけにして、横田河原において両者が激突した。城勢には長旅の疲れや油断もあり、兵力では城勢に遥かに劣る義仲勢に敗れた。

乗丹坊は、このときの戦いで討ち死にし、助職は負傷して越後に逃げ帰った。しかし越後では離反者が相次ぎ、さらに会津へと撤退した。その後助職と残った慧日寺勢は会津の守りを固めた。

しかし、慧日寺と城氏にとってこの敗戦は大きく、源平が合い争う中で勢力のバランスは大きく崩れ、奥羽のもう一つの大勢力の平泉藤原氏の攻撃を受け、慧日寺と城氏は衰退することになった。