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福島県磐梯町磐梯

 

徳一(とくいつ)上人は、奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の僧で、会津に慧日寺を開いた会津仏教の中心的な人物。

生没年などの詳 細は不明であるが、最澄とのあいだでやりとりされた所謂三一権実諍論や、空海に対して密教についての疑義を提示したことなどが記録に残り、当時の仏教界においては大きな存在だった。

徳一の出生については諸説あるが、仲麻呂の乱があった天平宝字8年(764)頃に、藤原仲麻呂(恵美押勝)の十一男として生まれ、一族は全て処刑されたが、幼い徳一は助けられたとされる。興福寺や東大寺で学び、その後、貴族の為の仏教ではなく、庶民の仏教をめざし若くして会津に下った。

天台宗の最澄とは、その宗教観を巡り論争し、その間やりとりされた「三一権実諍論」は有名である。真言宗の空海は、徳一を「菩薩」と呼び敬意を払っていたようだが、徳一は真言宗に対しても、密教についての疑義を提示している。

徳一は、終生会津を中心にして布教活動を行い、会津を中心とした東国には、陸奥会津の慧日寺や勝常寺、常陸の筑波山中禅寺、西光院など、徳一の開創あるいは徳一が活動したことを伝える寺院が数多くある。さらにその教えは弟子たちにより各地に広がり、特に磐城、常陸を中心とした東国に33箇所の寺が開かれた。承和7年(840)頃、座したまま静かに没したと伝えられる。

徳一亡き後も慧日寺は寺勢を伸ばし、最盛期には寺僧300、僧兵数千、子院3,800を数えるほどの隆盛を誇った。しかし慧日寺は、源平合戦の際に、慧日寺と関係の深かった越後の城氏が木曽義仲と戦った際にともに戦い敗れ、寺勢は急速に衰えた。