福島県磐梯町磐梯

 

会津地方は、国内でも最も早く仏教が定着した地の一つで、欽明天皇時代(540頃)に仏教が伝えられたとされる。

慧日寺は、平安時代初め、磐梯山の大噴火の翌年の大同2年(807)、徳一上人により開かれたとされる。また、「慧日寺縁起」によれば、この地は磐梯山の魔物の祟りで、この地に天候不順が続き、農民は凶作で難儀していた。これを鎮めるため、勅命を受けた空海がこの地を訪れた。空海は祈祷を行い、持っていた三鈷杵を高く雲中に投げ上げたところ、三鈷杵はこの地の井戸の脇の藤の木にひっかかり、その地に寺を建てたのが始まりともされる。いずれにしても、この時代にはすでにその下地になる仏教文化があったと考えられる。

徳一上人は、奈良南都の学僧だったが、布教活動のため会津へ下り、勝常寺や円蔵寺(柳津虚空蔵尊)を建立し、会津地方に仏教文化を広め、現在も会津各地に広くその伝説が伝えられている。上人は、天台宗の最澄と大論争を繰り広げ、また真言宗の空海にも真言宗に対する疑問を書き送るなど一線を画していた。

当時会津地方には、慧日寺とは別に高寺を中心とした一大仏教勢力があり、慧日寺はこの高寺勢力と争った。この争いには、会津進出をはかる越後の城氏が介入し、城重範が「会津八館」を設けた。城氏は当初高寺と結んだが、慧日寺の僧兵はきわめて強力で、城氏は高寺を見切り慧日寺と結んだ。その結果、高寺は敗れ会津仏教は慧日寺が支配し、慧日寺は寺僧300、僧兵数千、子院3,800を数えるほどの隆盛を誇ったと云う。

平安時代後期、慧日寺と関係が深い城氏は、源氏と平氏との対立が始まると平家方に付き、木曾義仲と信濃横田河原で戦った。このとき慧日寺衆徒頭の乗丹坊は、会津四郡の兵を引き連れて城氏とともに木曽義仲と戦った。この戦いで城氏は破れ、乗丹坊も討ち死にし、慧日寺は衰退した。

その後中世にはいり、歴代領主の庇護を受け伽藍なども復興され、室町時代には門前町も形成された。しかし、天正17年(1589)、伊達政宗が会津に侵攻し、葦名氏と摺上原で戦った際に戦火に巻き込まれ、金堂を残して全て焼失した。

その金堂も寛永3年(1626)に焼失し、その後再建されたが、寺勢はますます衰退し、明治2年(1869)、廃仏毀釈によって廃寺となった。その後、明治37年(1904)、真言宗の恵日寺として復興した。

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