福島県須賀川市諏訪町

  • 須賀川城縄張り図(現地説明板)
 

須賀川城は、釈迦堂川の氾濫原を見下ろす段差約20mの台地上に築かれた平山城。応永6年(1399)、足利満兼が奥羽支配のため遣わした満貞、満直にしたがってこの地に来た二階堂治部大輔行続が築城したと伝えられる。現在は本丸跡に二階堂神社が残る。社殿が建つ場所はかつての本丸の土塁で、西側の長松院境内に、土塁と堀の遺構が残る。

二階堂氏は、室町中期から南北朝期にかけて内部に混乱を抱えていたようで、福島県岩瀬郡に一定の勢力を保ってはいたが系譜等の詳細は定かではない。

永享10年(1438)、鎌倉公方持氏と関東管領上杉憲実の対立から「永享の乱」が勃発すると、将軍足利義教は管領方に与し軍事介入し、この際、 鎌倉の嫡流の二階堂氏は鎌倉公方に与したが、須賀川の同族の治部大輔行続は幕府方で出陣した。乱は結局幕府方の勝利となり、二階堂氏は須賀川の行続が 実権を握るようになり、新たにこの須賀川城を構築し、岩瀬山城から移った。

鎌倉の二階堂氏の嫡流は、為氏が幼くして跡を継ぎ、須賀川は治部大輔行続がそのまま代官として治めていた。しかし、行続は専横の事が多く、鎌倉にいた為氏の意にも従わなくなった。そのため為氏は、みずから須賀川に下向することに決し、文安元年(1444)須賀川に下向し、命令に従わない治部大輔行続を須賀川城に攻めた。このときの戦いは激戦となり、一時は為氏も討死するかと思うほどの激しい戦いが繰り広げられたが、ついに治部大輔は城に火を放ち、為氏方の勝利に帰した。

この為氏が須賀川二階堂氏の初代当主ともいわれている。為氏は須賀川城に入り、大名としての地位を確立した。この須賀川城への入城は、12月31日であったため、門松などを飾る暇もなく新年を迎えたため、これが嘉例となり、その後二階堂家臣の家は、門松を立てずにただ縄を廻しただけで新年を迎える家が多かったといわれる。

伊達氏の内紛の天文の乱の際には、二階堂氏は伊達稙宗に加担し、田村、葦名氏らとともに晴宗と戦った。この乱の過程で会津の葦名氏が勢力を拡大した。その勢力は結城白河氏、二階堂氏、畠山氏、田村氏の諸氏にも及んだ。この時期、結城白河氏には内紛が続き、二階堂氏はその隙を突き、弘治2年(1556)、白河領の矢吹に侵入し白河勢を破ったが、永禄2年(1559)には逆に白河勢の反撃にあい須賀川まで迫られ和を講じた。

やがて、常陸の佐竹氏が南奥に勢力を伸ばし、仙道進出を目論んだ軍事行動を開始した。二階堂氏は佐竹氏と手を結び、佐竹氏は急激に南奥に進出し、赤館を落とし、ついに白川本城を攻略した。

この争乱は、伊達輝宗の調停などにより一旦は講和したが、間もなく破綻し、合戦が繰り返された。南奥の諸勢力は、それぞれの家が縁組みで結ばれ姻戚関係にあり、それが中世的な馴れ合いを生んでいた。このような中に、まったく新しい論理で割込んできたのが伊達政宗であった。政宗の登場によって南奥の戦国時代は一変した。

天正8年(1580)、葦名盛氏が死去すると、家督は二階堂氏から養子として入っていた盛隆が継いだ。盛隆は葦名氏の家督を継ぐとともに、盛義の死後の二階堂氏の家政も取り仕切った。ところが、天正12年(1584)、盛隆は家臣によって殺害されてしまった。以後、須賀川城は盛隆の母であり、伊達政宗の伯母でもある盛義の未亡人が守り、家老須田盛秀が実質的な城代を努め、勢力を拡大する伊達政宗に対する「反伊達」勢力の一翼を担った。

盛隆死後の葦名氏は、生まれたばかりの遺児亀王丸が継いだが間もなく死去、葦名氏の家中は伊達政宗の弟竺丸を迎えようとする派と、佐竹義重の二男で白河氏を継いでいる義広を迎えようとする派とに分裂し、結局、佐竹義広が入って葦名氏の家督を継いだ。

このころ、伊達政宗は破竹の勢いで勢力を拡大しており、佐竹、葦名氏を中心とした反伊達連合軍と伊達政宗との間で「人取橋の合戦」が戦われた。が、数に優る連合軍が敗れるという結果になった。そして天正17年(1589)、「摺上原の合戦」が起り、葦名氏は敗れ義広は実家の佐竹氏を頼って会津を去り葦名氏は滅亡した。
摺上原の合戦は葦名氏と伊達氏の対戦であったが、その実は佐竹氏とそれに従う葦名、白河、岩城、二階堂、石川など南奥連合軍と伊達、田村氏との決戦であった。この決戦によって、南奥の諸大名は伊達氏へ服属する道を選んだのである。

しかし二階堂氏は、伊達と対決する道を選んだ。この時の須賀川城主だった政宗の伯母でもある二階堂盛義の後室は勇気もあり気丈な女性だった。天正9年(1581)に盛義が死去してのち、一歩として外敵を領内に入れることはなかった。しかし今度は会津を平定した伊達政宗であり、家臣らも異口同音に降服が良策であると進言した。しかし後室は頑として承知せず、ひたすら籠城の準備をした。

伯母の籠城を知った政宗は、再三にわたり帰順を勧めたが、未亡人はそれを聞き入れなかった。ついに、天正17年(1589)12月、政宗は総攻撃を命じ、激戦のすえ須賀川城は落城し二階堂氏は滅亡した。落城後、後室は政宗を嫌い岩城氏の保護を受け、さらに佐竹氏を頼り、佐竹氏が秋田に移封されたのちは須賀川に帰り、寛永8年(1631)に波瀾の生涯を閉じた。

その後須賀川城は政宗によって一族の石川昭光に与えられたが、翌天正18年(1590)に豊臣秀吉の奥州仕置によって蒲生氏郷領となり、配下の田丸氏が領主となった。その後慶長3年(1598)に上杉景勝が会津に入り、部下の栗田氏が統治し、慶長6年(1601)に蒲生秀行が会津藩主となると、家臣の蒲生郷成が須賀川城に入った。さらに寛永4年(1627)に加藤嘉明が藩主となった後、まもなく廃城となった。

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