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福島県須賀川市栗谷沢…翠ヶ丘公園内

  • 五老山

この五老山は、古くは岩瀬山城の郭の一つの、五老山館があった地である。現在は翠ヶ丘公園の一画として整備され、館跡を思わせるような遺構は見られない。

この五老山は、天正9年(1581)、三春城主の田村清顕、須賀川城主二階堂盛義の老臣5人が、この地で講和の交渉を行ったことから「五老山」と呼ばれるようになったと伝えられる。

この五老山は、毎年11月に行われる日本三大火祭りの一つである「松明あかし」の舞台となる。天正17年(1589)、須賀川城は伊達政宗に攻められ落城した。「松明あかし」は、この時戦死した人々の霊を弔うために始められた祭りであるとされる。

福島県の中通りでは、古くから石川、岩城、白川、二階堂、田村ら各氏が入り乱れて争いを繰り広げており、戦国時代末期には、それに会津からは葦名氏、そして北上する佐竹氏、南下する伊達氏が、中通りの各氏を呑み込んで争った。

天正8年(1580)、葦名盛氏が死去すると、二階堂氏から養子として入っていた盛隆がその跡を継ぎ、二階堂盛義の死後は二階堂氏の家政も盛隆が見ていた。これにより二階堂氏は葦名氏の後ろ盾を得たことになり、田村氏の三春城攻撃を企てるなど、二階堂氏の威勢はにわかに高まった。しかし、天正12年(1584)、葦名盛隆は家臣によって殺害され、以後、二階堂氏は盛隆の母であり、伊達政宗の伯母でもある盛義の未亡人大乗院が守り、家老須田盛秀が実質的な城代を努め、佐竹氏と結び、「反伊達」勢力の一翼を担った。

この佐竹、葦名氏を中心とした反伊達連合軍と伊達政宗の間で「人取橋の合戦」が戦われた。しかし、数に優る連合軍が撤退するという結果になり、政宗の武名は高まり、南奥の勢力は一気に伊達の側に傾いた。そして天正17年(1589)、「摺上原の合戦」で葦名氏は敗れ、会津の地を去った。

葦名氏の滅亡後も、二階堂氏は伊達氏と対決する道を選んだ。須賀川城主の大乗院は、勇気もあり気丈な女性で、夫の盛義が死去してのちも、一歩として外敵を領内に入れることはなかった。しかし、この時の伊達氏の勢力は強大で、家臣らは異口同音に降服が良策であると進言した。しかし大乗院は頑として承知せず、ひたすら籠城の準備をした。

二階堂家の家臣や領民らは、伊達政宗の総攻撃も近い夜、この五老山近くの十日山に、手に手に松明を灯し集まり、決死の覚悟で須賀川城を守ることを申し合わせ、大乗院に進言したと云う。

政宗は、再三にわたり大乗院に帰順を勧めたが、大乗院はそれを聞き入れず、ついに、同年10月26日、政宗は総攻撃を命じ、伊達勢と二階堂勢は釈迦堂川を挟んで壮絶な戦いを繰り広げた。強風が吹く戦いの中、伊達勢は須賀川城本丸の風上にある長禄寺に火を放ち、町中は火の海となり、須賀川城も炎に包まれ落城した。

須賀川城が落城したのちも、大乗院は甥の政宗を頼ることを潔しとせず、岩城氏の保護を受け、さらに佐竹氏を頼り、佐竹氏が秋田に移封されたのちは須賀川に帰り、寛永8年(1631)に波瀾の生涯を閉じた。

「松明あかし」では、須賀川城跡の二階堂神社で奉受された、長さ10m、重さ3トンもある大松明が担ぎ出され、町を練り歩きこの地へ運ばれる。大松明約30本はこの地に立てられ、一斉に点火し、太鼓が打ち鳴らされる豪壮な祭りである。