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福島県三春町御免町…福聚寺

震災前取材

 

福聚寺の裏手の高台に、田村義顕、隆顕、清顕三代の墓があり、町の指定史跡になっている。福聚寺は、田村輝定により、現在の郡山市日和田に創建されたが、16世紀初めに田村義顕が三春へ居城を移した際に、この地へ移った。

田村氏は、その祖を坂上田村麻呂と伝える。田村麻呂は、長くこの地にとどまっていたが、この在陣中に一人の妾があり、田村麻呂帰京後に一子を生んだ。その母は、娘をそのまま嫁にやったが、その夫はこの赤子を捨てさせた。そこに鶴が飛来し、この子を育て、その後、赤子は狩人に拾われ、田村麻呂の実子であることを知り養育した。鶴子丸と名付けられたその子は長じて後、平城天皇の御世に上洛し父に対面し、参内して奥州探題職を受けた。下向後は仙道のうちに城を築き三春と名付けたと伝えられる。

田村氏は、南北朝の内乱に際しては田村庄司氏とともに南朝方として活動したが、時流を巧みに泳ぎ、次第に勢力を拡大していった。田村庄司氏が、「小山義政の乱」に加担し鎌倉公方に討たれ没落すると、かわって田村地方を支配した。

一時田村氏は衰退したが、一族内紛などを経て、次第に力を盛り返して行く中で戦国期に入っていく。戦国期には、伊達氏、結城氏、葦名氏らに伍して対等に渡り合える実力をつけていった。田村氏発展の基礎を築いたのは義顕とされ、義顕は岩城氏の娘を室とし、田村氏の安泰を画した。田村氏は、当初守山城に拠ったといわれ、義顕の子隆顕の代に三春に居城を移した。

天文年間(1532頃)、義顕は隆顕に家督を譲って引退、隆顕の時代はまさに戦国乱世であり、南奥の地には戦乱が絶えなかった。田村氏は、陸奥国守護伊達稙宗の下、信夫、伊達、刈田から名取、亘理、伊具および出羽国置賜の諸郡にわたる広大な領国を築き挙げていた伊達氏と、南北朝期以来会津守護とよばれて会津に君臨していた葦名氏に挟まれて、苦しい立場にあった。

しかし、天文11年(1542)6月、伊達氏に「天文の乱」が勃発し、これは南奥州の諸大名家を二分する大乱に発展した。田村隆顕は、相馬顕胤、葦名盛氏、二階堂輝行らとともに岳父稙宗方に加担、二本松に出陣し、乱に乗じて安積郡進出を企て、27郷を攻め6城を奪った。さらに会津方を敗退させ、下飯津島、前田沢、郡山などを手中に収めた。

乱は結局、稙宗と晴宗は和睦し、伊達氏の家督は晴宗が継いで終息した。しかし乱後も、仙道の大名、国人諸家の抗争は続き、天文19年(1550)6月、田村隆顕は葦名氏と戦い敗れ仙道進出の足掛りを失なった。葦名氏はその勢力を拡大し、白河氏、二階堂氏、安積氏などの仙道諸氏は葦名氏になびいていったが、田村隆顕は葦名盛氏への対抗姿勢を崩さず、その独立性を保持した。

やがて、常陸の佐竹義昭が北進を始め、南奥羽はさらに複雑さを増した。元亀年間(1570~72)頃から、隆顕に代わって清顕が登場するようになり、この清顕が奥羽の戦国大名の一人として田村氏の全盛時代を現出した。

清顕は、葦名氏とともに佐竹氏と戦い、その後、葦名、二階堂勢と交戦するなど、状況の変化に応じながら独立を維持していたが、天正2年(1574)、葦名盛氏と白河義親、佐竹義重の三者の和議が成立し、この和議によって、葦名、二階堂、石川、白河、岩城氏らの連合がなり、清顕の周りは敵ばかりとなってしまった。わずかに北方の相馬、伊達両氏との友好関係が清顕にとっての救いであった。

このような不利な状況のなかで、清顕は活発に軍事行動を行い、天正4年(1575)には安積地方を傘下に収め、安積に出兵してきた葦名氏を撃退、背後から田村領に攻め込んだ岩城氏も撃退した。さらに、天正5年(1576)には白河城を陥落させ、あわせて白河、佐竹勢力下の諸城を攻略して、佐竹義重を敗退させた。

そして、天正7年(1579)冬、田村清顕の息女愛姫が伊達輝宗の嫡子政宗のもとへ輿入れをし、この伊達と田村の婚姻の成立によって、伊達、田村氏連合と佐竹、葦名、白河、二階堂、石川、岩城氏らの連合勢力との対立関係は決定的となった。

しかしながら、田村氏は南奥羽においては四面楚歌の状態で、葦名、二階堂、白河などの連合勢力から押し込まれ始めた。そして、天正11年(1583)ころから、清顕の麾下に属していた大内定綱が、二本松畠山氏を後楯として清顕と対立した。以後、清顕と大内定綱の間で合戦が繰り返され、田村勢は戦うたびにことごとく大内方に敗れた。ついに、清顕みずから兵を率いて塩松の千石森まで出馬して新城を構築し大内勢に対したが、この新城の城柵も破られ、田村勢はここでもまた敗れた。相次ぐ大敗に清顕は「今は田村の運命窮りぬ」と敵中に駆け入ろうとしたが、家臣に諌められて三春へ退いたという。

これで大内氏は完全に田村氏から独立し、東安達は大内氏の支配するところとなった。田村氏のこの窮状に乗じた岩城常隆、葦名盛隆らは田村領をうかがう様子をみせ、窮地に陥った清顕は伊達政宗に塩松攻めを依頼した。

伊達氏を継いでいた政宗は、伊達氏に臣従する旨を申し入れながら葦名氏に通じた大内定綱に対しただちに兵を起こした。政宗は大内勢の篭る小手森城を攻め、大内勢を残らずなで斬りにするというすさまじさを見せた。これに震え上がった定綱は小浜城を捨てて二本松に走り、塩松はすべて伊達方の手に帰した。

天正14年(1586)10月、男子がなかった清顕は、政宗に男子が誕生したら田村の家嗣とすべしと遺言を残し急死した。しかしその後田村家中は、伊達派と相馬派に二分され、これにより田村地方の支配をめぐり、伊達と相馬は対立関係となった。

しかし結局、政宗が三春城に入り、清顕の甥を田村氏の名代とし、相馬勢力を一掃し、田村家中と田村領は政治的にひとまず安定をみたが、田村領は実質的に伊達領となり、田村氏は大名としての自立性を失うことになった。

翌天正17年(1589)6月、政宗は葦名義広と会津摺上原に戦って大勝し葦名氏は滅亡、その後、政宗は二階堂氏を討ち、常陸佐竹領への侵攻を企てた。しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原征伐の軍を発し、奥羽の諸将にも参陣、臣従を迫ってきた。政宗は結局、常陸佐竹領への出馬を取りやめ小田原に参陣した。

田村氏や、白河結城氏、石川氏らは、伊達氏に服属しながらもなお独自の領国支配を行っており、小田原参陣を望んだ。しかし、政宗は白河結城、石川、田村氏らの参陣を差し控えさせ、その結果、小田原北条氏没落後に実施された「奥州仕置」によって、田村、白河結城、石川氏らは小田原不参を理由に改易され、所領および居城は没収された。

改易された田村宗顕以下の田村家中を、政宗は米沢に招こうとつとめたが、田村家中は政宗に裏切られたという憤りをもっていたことから、その多くは新たに会津の大名となった蒲生氏のもとに去った。田村宗顕は、その後政宗の保護下にあったが早逝し田村氏は断絶した。

その後、田村氏は、政宗正室の愛姫の強い願いもあり、伊達政宗の孫宗良が、岩沼3万石を与えられて田村右京を名乗り再興、のち一関に移り子孫は一関藩主として明治維新を迎えた。