福島県田村市船引町船引字館山
2015/03/23取材
船引城は、比高30mほどの、船引市街を見下ろす館山に築かれた山城。館山の麓には大滝根川が流れ、また東西に都路街道が通っており、交通の要衝の地に築かれている。
城跡は館山公園として整備されており、最高所に主郭を置き東西の尾根筋に向けて二の郭、三の郭が配された縄張りとなっている。主郭は、長軸50mほどの規模で、周囲は急な切岸で守られている。この主郭の西側に、削り残しによる高さ5mほどの城塁があり、現在は秋葉神社が祀られているが、往時は物見櫓があったとも考えられる。
船引城は、築城年代や築城者については定かではないが、文明19年頃は船引朝国の居城であったという。天正年間(1573~92)の初頭に、三春城主田村清顕は田村郡、安達郡東部まで勢力を伸ばし、船引城は田村領の中央に位置する城として重要な役目を果たした。
田村清顕の時代には、この地域は大小勢力が入り乱れ、清顕は佐竹氏や葦名氏、二階堂氏などと敵対関係にあった。わずかに北方の相馬氏、伊達両氏とは友好関係にあった。
そして、天正7年(1579)、田村清顕の息女愛姫が伊達輝宗の嫡子政宗のもとへ輿入れをし、伊達、田村氏連合と佐竹、葦名、白河、二階堂、石川、岩城氏らの連合勢力との対立関係は決定的となった。
人取橋の戦いの翌年の天正14年(1586)、田村清顕が死去した。男子がなかった清顕は、政宗に男子が誕生したら田村の家嗣とすべしと遺言を残していた。清顕の後室で政宗正室愛姫の実母は、孫の出生までは後室が、伊達家を後見として田村家を保つことに定めた。
しかし、この当時、政宗と愛姫は不和だったようで、これを聞いた後室は考えを変え、実家の相馬氏と結ぼうとし、これにより田村家中は、伊達派と相馬派に二分された。そしてそれは家中の争乱に発展し、伊達派は政宗に出馬を要請し、これに対し相馬義胤が三春入城をはかった。
家中の伊達派はこれを阻止し、相馬義胤はこの船引城に入った。伊達政宗は途中郡山合戦を戦いかろうじて勝利し、政宗は三春城に入り、清顕の甥の孫七郎を宗顕とし田村氏の後継とした。
政宗は、船引城を攻める構えを見せたが、相馬義胤は相馬領に兵を引き、清顕の後室相馬氏は、この船引城に隠退させられた。この政宗の仕置により、田村家中と田村領は政治的にひとまず安定したが、田村領は実質的に伊達領となり、田村氏は大名としての自立性を失うことになった。