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 福島県双葉郡浪江町大字川添

現在の正西寺の地には、かつては華光院があった。華光院は、嘉吉2年(1442)、標葉清隆により標葉氏の居城である権現堂城に建てられたのが始まりである。しかしその後、標葉氏は滅亡し、相馬氏家臣がこの地を領していたが、天正2年(1574)火事により全焼しこの地に移転した。

正西寺は、標葉氏の滅亡後、標葉氏に臣従した六騎衆の一騎で、世の無常を感じ出家した小丸氏の釈光善が開山し、元和2年(1616)、正西寺の寺号を許された。明治に入り、華光院が廃寺になると、寺域を継承しこの地に移った。

関ヶ原の戦いの際に、伊達政宗は、徳川家康の要請を受けて、会津の上杉景勝を北から牽制するために大坂から仙台へ帰還することになった。しかし中通りは上杉領のため封鎖され通ることができず、この浜通りの相馬領を僅かな供回りだけで通ることになった。

伊達氏と相馬氏はそれまで激しく敵対し、幾度となく戦っており、相馬義胤の家臣は皆この期に政宗を討つべしと評議した。しかし老臣の水谷胤重は「僅かな供回りの政宗を討ち取るのは勇者のなすべきことではない。また、上杉が敗れて徳川が勝利を収めれば、当家は家康のために忽ち亡ぼされるであろう。我が備えを完全にし、彼の代わりに夜の守りを固めて本国へ返し、他日戦に望んでは両家が運を天に任せて雌雄を決するのが最良と存ずる」と解き、義胤もこれに同意し、この地の華光院に宿泊させ何事もなく無事に通過させたと云う。

関ヶ原の戦いの後に、相馬氏は西軍寄りの動きを咎められ、所領没収、改易と決まった。このとき、伊達政宗は徳川家康に「相馬とは長年敵対しており、関ヶ原の戦いの際に相馬領内を通り伊達領に戻るとき、討とうと思えば討てたものを、旧き恨を忘れ新しき恩を施した。これにより、相馬が徳川に対し敵対したものでないことは明らかだ」として弁護したと伝える。