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福島県会津若松市一箕町字八幡

 

滝沢本陣は、旧若松城下から白河、江戸に至る旧白河街道沿いにあり、滝沢峠の城下側の上り口にある。現存する建物は延宝6年(1678)に建てられたもの。もとは農民の住宅として建てられたが、地の利から会津藩主の休憩所として藩から本陣の指定をうけ、座敷の部分が東側に追加建築された。歴代会津藩主の参勤交代をはじめ、領内巡視、藩祖保科正之をまつる土津神社の参詣の際に休息所として利用された。

戊辰戦争では、藩主松平容保が前線激励のため自ら滝沢に陣を敷いた。その時、護衛としてついたのが白虎隊だった。母成峠での戦いが敗れた報に接した容保はこの本陣で指揮を執ったが、最終防衛線の十六橋までもが突破され、戸ノ口原の前線から援軍を求める急使がきて、ついに藩主親衛隊の白虎士中二番隊に出陣が命じられた。

しかし、戸ノ口原での戦いは白虎隊の奮戦も空しく敗れ、新政府軍は滝沢峠を越えて城下に乱入した。この本陣でも戦いがあったようで、座敷には当時の戦闘による弾痕や刀傷などが残る。会津勢が若松城に篭城した後は、新政府軍の詰所として使われたと云う。

茅葺きの屋根におおわれた書院づくりの建物は、国の重要文化財に指定され、御入御門、御座の間、御次の間などが当時の姿のまま残されている。さらに歴代藩主の身の回り品、参勤交代の道具類、古文書なども保管されている。