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福島県会津若松市河東町八田戸ノ口堰下

 

十六橋は 、猪苗代町と会津若松市に跨る橋で、猪苗代湖にほど近い場所で日橋川にかかり、旧若松街道はここを通っていた。その名前の由来は、弘法大師が流れの中に十六の塚を築き、十六断の橋としたことに由来すると伝えられる。その後、度々朽ちるので、天明6年(1786)に材木石を用い、勾欄の付いた23断の石橋となった。

慶応4年(1868)8月21日、二本松城を占領した新政府軍は脇街道で手薄な母成峠を衝いた。伝習隊、土方歳三の新選組、猪苗代城の会津兵が応戦したが守りきれず退却した。新政府軍はこれを急追、木地小屋部落で一夜をすごすと、翌22日には薩摩軍が猪苗代に向けて進撃を開始した。

猪苗代には会津の出城の猪苗代城があり、また会津松平藩祖の保科正之を祀る土津神社がある。当然熾烈な戦闘があるものと考えられたが、猪苗代勢は全軍を挙げて母成峠の守備に当たっており、壊滅的な打撃を受けて、城を守るに兵がなく、会津勢は猪苗代城と土津神社に火をかけ退却していた。

猪苗代に入った薩摩の四番隊は、会津兵が十六橋を破壊する前にこれを確保するため、午後2時頃には再び進撃を開始した。若松の城下に入るにはこの橋を渡らなければならなかったが、もしこの橋を会津勢に破壊されれば、水量の多いこの川は容易に渡れるものではなかった。

会津勢がこの橋を破壊しようとしている所に薩摩四番隊が到着し、すぐさま戦闘が始まった。薩摩勢は会津勢に優勢な火力を浴びせ、次々に橋を渡った。会津勢は支えきれず、午後3時頃にはこの天険を棄てるに至った。

十六橋が敵の手に陥るの報は、忽ち若松城に飛んだ。会津軍の大半は国境方面に出陣しており、城内は手薄であったが、若松城下侵入を阻止するべく、急遽、敢死隊、奇勝隊700余名が派遣され、十六橋の南岸の戸ノ口原一帯に防御線を布くと同時に、藩主容保みずからも若松郊外の滝沢へと本陣を進めた。そしてこのとき藩主を護衛していた士中白虎二番隊の少年達にも戸ノ口原への出動命令が下され、その後の白虎隊の悲劇へとつながっていく。