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福島県会津若松市一箕町八幡字弁天下

 

慶応3年 (1867)10月、徳川慶喜は大政奉還し、美濃郡上藩4万8千石の藩主青山幸宜は、朝命に従い上京した。藩論は割れ、国元の家臣は次第に勤王に傾き、翌4年2月には、朝廷への恭順の誓書を差し出した。しかし、江戸藩邸には佐幕の一派があり、江戸家老の朝比奈藤兵衛は、幕府軍が勝利した時のことを考え、17歳の息子茂吉を隊長とし、藩士47名をひそかに脱藩させ、幕府軍側の一隊として凌霜隊を結成させた。

彼らは4月、江戸湾を船で出発し海路北上し、千葉の行徳から江戸川を溯って前橋に上陸、会津に向かった。途中小山で戦い、宇都宮に奮戦し、戦いを重ねながら日光街道から塩原に出て田島に至り、大内峠の激戦を戦い、9月の関山の戦いでは、会津の青龍足軽二番隊と合流し戦った。

若松の城下に入ったときには、既に西軍が侵攻しており、城は籠城戦に入っていた。副隊長の速水小三郎は「敵の脇の下をくぐり股をくぐってでも城下に入れ。殺されたら魂となってでも行け。びくびくするな」と叱咤しながら、城へ向かい決死の進撃をしたと云う。

9月6日にようやく若松城に入城した。入城した凌霜隊は、日向内記の配下に編入され、再編された白虎隊士らとともに、開城の日まで西出丸の防衛にあたった。

会津開城後は、生き残った30余名は囚人同様にして故郷の郡上八幡に護送され、赤谷揚屋に閉じ込められた。赤谷揚屋は低湿地に建てられていた牢屋で、湿気が多く風通しが悪く光が入らないという悪条件下にあり、更に運動は禁止され食事も粗末で、3ヶ月後には病人が続出した。

この凌霜隊の揚屋での惨状を知った僧侶達が彼等の救済に乗り出し、藩の主脳部に非道を訴え、やがて凌霜隊士は他所へ移され、生活環境はようやく改善された。

その後凌霜隊は許され自由の身となったが、彼等に対する藩内の対応は暖かいものではなく、やがてバラバラに故郷を離れ、再び帰ってくる者は少なかったという。隊長の朝比奈茂吉は、彦根で明治27年(1894)7月、43歳で没した。