福島県会津若松市一箕町八幡字弁天下

 

慶応4年(1868)、戊辰戦争が勃発した。会津藩は京都守護職にあり、配下の新選組などを使い、徳川家茂の警護や京都市内の治安維持にあたった。これらのことから、旧幕府勢力の中心と見なされ、その後、新政府軍の仇敵と見なされるようになった。

会津藩主松平容保は、鳥羽伏見の戦いの後、会津に帰り謹慎していたが、主戦派に後押しされ、軍制を改革して、年齢に応じて朱雀、青龍、玄武、白虎の諸隊を設け、洋式銃を買い集め、新政府軍との戦いに備えはじめた。5月には奥羽越列藩同盟が成立し、新潟から東北にかけて、同盟諸藩と新政府軍との武力衝突が始まった。

それでも、初戦は新政府軍の兵力不足もあり列藩同盟は善戦するが、越後長岡城や二本松城が落城し、8月20日には新政府軍に会津攻撃の勅命が下った。新政府軍は、比較的手薄な母成峠を衝き、8月21日には母成峠を抜き23日朝には会津若松城下に突入した。

白虎隊は、会津戦争に際して会津藩が組織した15歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊であり、少年でもあり本来は予備兵力であった。隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、充足数はおよそ340名程度だった。装備は旧式銃で、新政府軍の主力部隊の装備と比べはるかに劣っていた。

会津藩では、若松城を死守すべく、会津若松へと至る街道口に主力部隊を展開させていたが、新政府軍の電撃的な侵攻の前に虚を衝かれ、重要な防衛拠点であった十六橋の破壊に失敗した。ついに城下防衛の任に当たっていた予備兵力の白虎隊も出撃することになり、白虎隊は各防衛拠点へと投入された。

しかし会津軍の劣勢は覆うべくもなく、白虎隊も各所で苦戦を強いられた。この中で、戸ノ口原に出撃していた白虎隊二番隊は、戸ノ口原の戦いで決定的打撃を受け、奮戦空しく撤退を余儀なくされた。戦死者も少なからずあり、内20名は、戸ノ口堰洞穴を抜けて飯盛山へと落ち延びた。

新政府軍はこのときすでに会津城下に入り、城下は火の手に包まれていた。飯盛山からこれを眺めた白虎隊士20人は、若松城が炎上しているものと誤認し、20名全員が自刃し、後に蘇生した1名を除き19名が死亡した。

この白虎隊二番隊20名以外の少年たちは、若松城に入りその後の篭城戦を戦った。蒲生氏郷が築き、加藤明成が改修した鶴ヶ城はさすがに名城で、1ヶ月にもおよぶ戦闘に耐えたが、援軍も見込まれない中、昼夜に及ぶ砲撃にさらされ、ついに9月22日降伏した。会津藩降伏後は、新しい時代に向けて追い腹を切る事を禁じられ、残った290名の白虎隊士は、新時代に様々な分野で活躍することになる。

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