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福島県会津若松市七日町…渋川問屋

 

渋川善助は北一輝らとともに「昭和維新」を唱え、民間人ながら二・二六事件に加わり処刑された。

善助は、この会津若松市七日町の海産物問屋の長男に生まれた。会津中学校、仙台陸軍地方幼年学校を経て、陸軍士官学校予科に進み、御前講演を行うほど成績優秀であった。しかし、陸軍士官学校卒業目前に教官と衝突し退学となった。

その後上京し、明治大学法科に学び、国家主義運動にかかわった。昭和7年(1932)に、杉田省吾、西田税、福井幸、加藤春海等とともに維新同志会を結成し、二・二六事件に唯一の民間人として加わった。善助らの考えは、天皇を取り巻く政財界の「君側の奸」を排除し、天皇親政による国家改造を行うことであった。

善助は湯河原にいた牧野伸顕前内大臣を襲撃するために、偵察のため夫妻で湯河原伊藤屋本館に宿泊。事件前日の2月25日に河野大尉と合流し、一旦東京に戻り、その後兵を連れ自動車で湯河原に入り、夜明けを待って伊藤屋別館の光風荘を襲撃した。

結局、この二・二六事件は鎮圧され、善助たちの意図とは異なったところで、日本の政治は軍部独裁となっていき、その後の大戦へと向かって行く事になる。善助は、昭和11年(1936)7月、銃殺刑となった。31歳だった。

この善助生家の少年時代を過ごした部屋は現在でも保存されており、松本清張や三島由紀夫が訪れ、生前の三島由紀夫が「憂国の間」と名付けた。