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福島県会津若松市材木町二丁目
この地は、幕末時期の会津藩の軍事顧問だったヘンリー・スネルの屋敷跡である。
幕末時期の万延元年(1860)頃、ヘンリー・スネルと弟のエドワルド・スネルは日本に来ていた。ヘンリーはプロシアの領事の書記官を務め、弟エドワルドはスイス総領事書記官であった。
慶応3年(1867)、兄弟は書記官を辞め、新潟に移り、弟エドワルドはエドワルド・スネル商会を設立した。会津藩家老の梶原平馬は、長岡藩家老の河井継之助の仲介で、エドワルドからライフル銃780挺と2万ドル相当の弾薬を、河井も数百挺の元込め銃とガトリング砲を2挺購入している。
兄ヘンリーは、梶原の案内で会津に入り軍事顧問を務め砲術を教えた。ヘンリーは会津だけではなく、米沢藩の軍事顧問も兼ね、奥羽越列藩同盟成立に大きな影響を与えることになった。当時、日本の武士と同じように髷を結っていたと伝えられる。会津藩主松平容保は、ヘンリーに脇差と平松武兵衛の名を与え、屋敷も提供した。
戊辰戦争が起こると上海や香港から武器弾薬を運び、奥羽越列藩同盟に送り込み、また越後戦線で戦ったとも云う。
明治維新後の明治元年(1869)、カリフォルニア州に会津若松の人々約40人と共に移住し、サンフランシスコの北東にあるゴールドヒルに「若松コロニー」という名の開拓地を建設した。しかし、日本から持ってきた茶や桑などが育たず、1年ほどで若松コロニーの経営は行き詰まった。明治3年(1871)、ヘンリーは金策の為に日本へ戻ったとされるが、その後コロニーに戻ることは無かった。日本で暗殺されたとも云われている。