福島県会津若松市館馬町

 

蒲生秀行は、文禄4年(1595)から慶長3年(1598)までと、慶長6年(1601)から 慶長17年(1612)までの二回にわたって会津の領主だった。

大きい切石を二段に積んだ基壇に石造五輪塔を据え、これを木造覆屋で覆っている。廟屋は懸魚や木鼻に桃山から江戸初期の特徴があり、卒年の慶長12年(1612)の間もない頃と考えられる。

蒲生秀行は、天正11年(1583)、蒲生氏郷の嫡男として生まれた。父の氏郷は、豊臣秀吉により天正18年(1590)の奥州仕置において伊勢より会津に移封され、九十二万石の大領を与えられた。文禄元年(1592)、文禄の役に際して肥前名護屋へと出陣したが、この陣中にて体調を崩し文禄4年(1595)京都の伏見で没した。

この父の死により家督を継いだが、このとき秀行はまだ12歳であり、伊達政宗や徳川家康への押さえとしての役割に不安を抱いた秀吉は、会津領を収公して近江に二万石を与えるという裁定をした。しかしこれは関白秀次により覆され、会津九十二万石の相続は許されたが、この一件が後の秀次事件の一因とされている。

その後、秀吉の命で徳川家康の娘振姫を正室に迎えることを条件に、改めて会津領の相続が認められたが、若年であったため家中を掌握できず、ついに重臣同士の対立を招き御家騒動が起こった。そのため慶長3年(1598)、秀吉の命により、会津92万石から宇都宮12万石へと減移封された。

その後の慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、徳川家康の東軍に与し、本拠の宇都宮で、会津の上杉景勝の軍を牽制した。戦後その功により、没収された上杉領の内から六十万石を与えら会津に復帰した。その後秀行は、家康の娘の振姫を正室としていたため徳川氏の一門衆として重用された。しかし会津地震に遭うなどの災害もあり、その心労の中、慶長17年(1612)5月死去した。享年30歳だった。

その後、蒲生氏は10歳の長男の忠郷が継いだが、再び蒲生家中は乱れ、忠郷は嗣子もない中26歳で若死にし、弟の忠知を後継とし伊予松山に減移封された。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です