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福島県会津若松市東山大字石山字天寧…天寧寺

 

この地の墓は、近藤勇の首が、新撰組副長であった土方歳三の手により会津にもたらされ、この地に埋葬されたと伝えられる。

近藤勇(いさみ)は、天保5年(1834)10月、郷士宮川久次郎の三男として、現在の東京都調布市野水に生まれた。幼名を勝太という。嘉永元年(1849)天然理心流剣術道場の試衛館に入門、15歳にして天然理心流近藤周助の代稽古をつとめ、近藤門下の麒麟児として近郷に名を馳せた。道場主の近藤周助に認められ、近藤家の養子となり近藤勇を名乗った。万延2年(1861)に天然理心流剣術宗家四代目を襲名し。流派一門の宗家を継いだ。

この当時、試衛館には、塾頭として、沖田総司、土方歳三、山南敬助、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、客分に永倉新八らが名を連ね、彼らはその後新撰組でともに戦った。

文久3年(1863)、清河八郎の献策により、江戸幕府は十四代将軍徳川家茂の上洛警護をする浪士組への参加者を募り、近藤勇は、他の試衛館の7人とともにこれに参加し、同年2月京都に向けて出発した。清河は朝廷に建白書を提出し浪士組の江戸帰還を提案したが、これに異議を唱えた近藤や水戸郷士の芹沢鴨ら24人は京に残留し、京都守護職会津藩主の松平容保に嘆願書を提出し、京都守護職配下で「壬生浪士組」を結成した。しかし、内部争いが生じる中、浪士組は近藤派と芹沢派の二派となった。

この時期、時代は混迷を深めており、会津藩、薩摩藩主導の「8月18日の政変」が起こると、急進的な尊皇攘夷派の長州藩は京都から追放され、壬生浪士組は御花畑門の警護担当となり、合わせて長州勢の残党狩りに出動した。その働きぶりが認められ、武家伝奏より「新撰組」の隊名が下賜され、また、同年9月には芹沢一派を粛清し近藤勇主導の新体制が構築された。

新撰組の活躍は、文久3年(1863)から慶応3年(1867)に至る5年間で、中でも池田屋騒動は有名である。新選組は捕まえた長州藩の志士の自白から、元治元年(1864)6月、京都御所に火を放ち、その混乱に乗じて朝廷を長州に奪行しようとの企てを知り、探索の結果、同志が祇園祭を幸いに池田屋に集結するのを察知し出動、後世に残る大惨事となった。この働きにより、新撰組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜り、また禁門の変出動を経て、慶応3年(1867)、新撰組は幕臣となり、近藤は御目見得以上の格となった。

しかしその後、幕府は大政奉還を行い、慶応4年(1868)1月鳥羽伏見の戦いが勃発した。新撰組はこの戦いに参戦したが新式火器の前に敗走、幕府軍艦で江戸に入った。同年3月、幕命を受け、近藤勇は甲陽鎮撫隊として新撰組を再編し甲府へ出陣したが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて敗走した。4月に下総国流山に屯集していたところを新政府軍に包囲され、越谷の政府軍本営に出頭した。

結局、政府軍に近藤を知るものがおり捕縛され、4月25日、中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首され、首は板橋と京都の三条河原で梟首されたという。享年35歳だった。

辞世は漢詩で作られ、それは以下の通りである。

孤軍援け絶えて俘囚となる。

顧みて君恩を思えば涙更に流る。

一片の丹衷能く節に殉ず。

雎陽千古是れ吾が儔。

他に靡き今日復た何をか言わん。

義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所。

快く受けん電光三尺の剣。

只将に一死をもって君恩に報いん。