阿津賀志山防塁

 

 

文治5年(1189)に、奥州平泉の藤原泰衡はこの地で、源頼朝の率いる鎌倉軍を迎え撃つべく防塁を築かせた。

防塁は三重の土塁と二条の空堀からなり、全体で約24mの幅があり、厚樫山の中腹から、東北自動車道、東北本線を挟んで約350mに及んだ。さらに阿武隈川までこの防塁を延ばし、総延長は3.2kmに及んだとも伝えられている。

当時は、この地点を東山道が通っていたと言い、国見山の南山麓を斜めに上り、防塁の直前で枡形に折れ、防塁を越して国見峠に向かっていたと思われる。

吾妻鏡などの記述を読むと、阿津賀志山の攻防は以下のように推移したようだ。

源頼朝率いる28万の軍勢は、3手に別れて奥州の攻撃に出発し、平泉軍は17万の軍勢でこれに対した。源頼朝は白河関を超えて東山道を進んだ。

藤原泰衡は阿津賀志山に防塁と大木戸を築き、西木戸太郎国衡にこれを守らせた。泰衡は名取、広瀬の両河に大縄を引いて柵とし、後方の国分原の鞭楯(仙台市)に陣を構えた。

阿津賀志山では、平泉軍、鎌倉軍双方2万の軍を繰り出し戦った。阿津賀志山を守っていた平泉方の金剛別当季綱らは防ぎ戦ったが、鎌倉軍は堀を埋め戻し防塁の一部が破られ、季綱らは畠山次郎重忠らの猛攻に堪えられなくなり退却した。

石那坂の陣では、平泉方の佐藤庄司らが陣を構えていたが、常陸冠者為宗らがこの陣の背後に回り攻撃を加え、佐藤庄司等は勇戦したが敗れた。

鎌倉軍は阿津賀志山を越えて攻撃したが、国衡率いる平泉勢は頑強に抵抗し、なかなか勝負がつかなかったが、安藤某の案内で、鎌倉勢は平泉勢の背後に回り鬨の声をあげ攻撃した。これで平泉勢は浮き足立ち総崩れになった。

国衡は北へと退却している途中、泥田にはまったところを和田小太郎義盛に追いつかれ討たれ、泰衡は阿津賀志山の陣が敗れたとの報に接し、周到狼狽して鞭楯から退却し、平泉に火を放ち、渡島(北海道)に逃げる途中、家臣に叛かれ討たれ、平泉は滅亡した。

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