福島県浪江町北幾世橋字北原…大聖寺

 

この大聖寺には、相馬藩五台藩主相馬昌胤と、七代藩主尊胤の墓がある。

相馬氏は、千葉常胤の子師常が、平将門の子孫の相馬小次郎師国の養子となり相馬氏の祖になったと伝えられるが異説もある。師常は、源頼朝の奥州藤原氏征伐に功があり、頼朝から陸奥国行方郡を与えられた。その後、師胤が行方郡に下向し居住、奥州相馬氏となった。

関ヶ原の戦いでは、佐竹氏とともに西軍よりの行動をとり、一時改易され最大の危機に陥った。しかし利胤の尽力により本領を回復し大名に復帰した。利胤は、相馬市中村に新城を築き、相馬中村藩初代藩主として城下町を整備した。

利胤は、大坂の陣には徳川秀忠の先陣として武功を顕わすなどし、徳川家の信頼を得たが、寛永2年(1625)没し、その跡は幼い義胤が継いだ。しかし義胤は32歳の若さで男子の無いままに没し、その跡は義胤の一人娘の亀姫に上総久留米藩主土屋利直の男子を婿養子として迎え、忠胤として三代藩主となった。

忠胤は名君と言われたが36歳で没し、その跡を継いだ貞胤も若くして男子を残さず死去、そのため弟の昌胤が末期養子として家督を相続した。昌胤は藩政改革を行うなど名君としてその名を残している。しかし男子にめぐまれず、元禄10年(1697)正月、長女の品姫に、秋田窪田藩主佐竹義処の次男の叙胤(のぶたね)を婿養子として迎え嫡子とした。

しかしその後、昌胤自身に男子が生まれ、千代松と名づけられたが、跡目相続の争いが起きることを懸念した昌胤は、千代松の出生を伏せ藩内には秘密とし、生まれて間もない千代松は、一族の相馬胤充に預けられ密かに養育された。昌胤は、養子の敍胤の藩主としての権力を磐石なものにするために、さまざまな手を打ち、六代藩主の座を敍胤に譲り、自身は北原御殿に隠居した。

しかし、昌胤の千代松に対する思いは強かったようで、宝永元年(1704)、千代松を養育していた相馬胤充が、千代松が成長しすでに8歳になっている事を昌胤に言上すると、昌胤は喜び、その夜みずから馬を馳せて千代松のもとを訪れ千代松と初対面し、その後の百余日の間を北原御殿で共に暮らしたと云う。

宝永5年(1705)年、敍胤が病のために隠居することとなった。敍胤には実子の菊千代がいたが、佐竹からの養子である敍胤が、昌胤の実子に家督を譲ることが筋目であると考えた敍胤は、千代松を養子とした。敍胤は隠居し、千代松は13歳で七代相馬中村藩主清胤となった。

正徳元年(1711)年、相馬中村で病気療養中だった敍胤が享年35歳で急死した。このとき15歳の清胤は、国許に帰国するにあたり、先代敍胤の嫡子で9歳の菊千代を世子と定め、藩主としてはじめて中村城に入った。清胤は実父昌胤を北原御殿に訪問し、御具足初を行い、昌胤は手ずから上帯を締め、祝儀として来国行の太刀一腰を清胤に与えたと云う。

その後清胤は、尊胤(たかたね)と名を改め、短命だったそれまでの相馬藩主の中では長命で、安定した藩政を行った。嫡子としていた敍胤の子の徳胤(のりたね…菊千代)は、養子とはいいながら僅か5歳違いで、尊胤と交替で江戸と領国を往復し、藩主代行を務め続けていた。しかし宝暦2年(1752)年、徳胤は51歳で亡くなった。尊胤は、徳胤の子の恕胤(もろたね)を嫡孫とし、その後も藩政を執り続け、明和2年(1765)その跡を恕胤に譲り隠居した。

安永2年(1772)4月、尊胤は江戸藩邸にて没した。享年76歳だった。その後は恕胤の流れが代々相馬氏を継ぎ、明治に至った。

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