福島県大熊町野上字諏訪
この大熊町野上の諏訪神社は、諏訪氏当主の諏訪頼重と武田信玄の妹の禰々の子の頼貞(寅王丸)が、この地に住み諏訪明神を祀ったものと伝えられる。頼貞は、武田信玄と諏訪一族の戦いの果てに流浪し、この野上の里に辿り着き住み着いたとされる。
戦国時期、甲斐守護の武田氏と信濃諏訪領主の諏訪氏は、長年抗争を繰り広げていたが、天文4年(1532)和睦し、天文9年(1540)、同盟の証として、武田信虎の三女禰々が諏訪頼重に嫁いだ。しかし、天文10年(1541)、頼重は上野国の関東管領上杉憲政の信濃佐久郡侵攻に際し、武田氏に無断で憲政と和睦し所領の分割を行った。
この時の武田氏の当主の武田晴信(後の信玄)は、これを盟約違反として同盟を破棄し、天文11年(1542)7月に諏訪侵攻を開始した。諏訪頼重は捕らえられ、甲府へ護送されて自害した。
このときすでに、頼重と禰々の間には寅王丸(後の頼貞)が生まれており、乳飲み子の寅王丸と母の禰々は甲斐へ引き取られた。諏訪では、諏訪一族の高遠頼継が反旗を翻し武田領に侵攻、武田晴信は幼い寅王丸を推戴して諏訪一族を統合し、頼継勢を撃退した。
武田氏は、信濃諸族に一族の子弟を養子として懐柔する方策を取っており、諏訪氏においては、天文15年(1546)に、寅王丸の姉の諏訪御料人と晴信との間に生まれた勝頼を諏訪勝頼として諏訪家を継承させた。
しかし諏訪氏は収まらず、大叔父の諏訪満隆が反乱を起こし敗れ、頼貞(寅王丸)は再起をはかり今川義元を頼って亡命しようとしたが、露見したために捕えられて殺されたと云う。
しかし異説も多くあり、この地での生存説のほかに、天文22年(1553)に越後へ出奔し、上杉謙信にその美貌と胆力とを愛され、春日山城内に住むことを許されて優遇されたとも伝えられる。