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福島県いわき市勿来九面平次返り

 

勿来切通しは、江戸時代初期に、国境の小さな山々にさえぎられていた人や馬の通行を改善しようと、山頂部分を切り通したと伝えられる切通しである。常陸国神岡宿から陸奥国関田宿を結ぶ最短距離となり、平藩の参勤交代にも使用されたと云う。

承応年間(1652~54)に、常州関本下野村(現在の北茨城市)の篠原和泉が、奥州の商人と申し合わせ、切通し工事の責任者として、切り開いたとされ、彼の名をとって和泉坂とも呼ばれたという。勿来切通しの規模は、幅員9尺(約2.7m)、長さ72歩(約131m)、高さ5丈1尺(約16m)だったと云う。

また別説には、慶長年間(1596~1615)に篠原和泉が洞門として貫通させ、それを承応元年(1652)頃に、同じ下野村の庄屋の酒井半左衛門が切り通したとも伝えられる。

平安時代以来の歌枕の地の勿来の関を訪れた文人は多く、この切通しが造られてからも、西山宗因、徳川光圀、伊能忠敬、立原杏所、吉田松陰らがこの地を通ったものと思われる。

また、戊辰戦争の際には、新政府軍は、この切通しのすぐ近くの平潟港に上陸した。平潟港を奪還しようとする列藩同盟軍や平を目指す新政府軍が目を血走らせ通ったであろう切通しである。