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福島県いわき市金山町字朝日台…金山公園

 

いわき市金山町の小高い丘に、安寿と厨子王のゆかりの地として、安寿と厨子王母子像が立っている。

今からおよそ千年前、平政氏は、奥州の賊徒を平定した功により、朝廷からこの岩城の地を賜り、岩城判官と号して住吉御所に居し、この地方を治めていた。

政氏は、神社を再興したり、付近の浜から砂鉄を運ばせ鉄の生産を行ったりと、この地に善政を敷いた。しかしその後、讒言により、政氏は朝廷での勤めに怠りがあったということで筑紫の国に流されてしまった。

しかし、この地の判官職は、その子の政道が継ぐことを許され、政道は父の志を継いで政治に励んだが、その内に信夫地方の領地を失ったりしたことで一族に不和が生じた。桜狩の帰り道、政道はこの地で逆臣の手にかかり一命を落としてしまった と云う。当時政道には、万寿という13歳の女の子と、千勝という11歳の男の子がいた。これがその後物語にもなった安寿と厨子王であると云う。

父政道の死後、奥方や安寿、厨子王の身に危険が迫り、奥方は安寿と厨子王、それに忠臣の大村次郎と召使の小笹をつれ、ある夜奥方の実家のある信夫を指して住吉御所を脱出した。途中追っ手に追いつかれ、大村次郎はこれと戦い討ち死にし、主従4名は命からがらようやく信夫にたどりついた。

しかし、そこにも長くは居られず、また岩城家再興を考え、京の都に上ることを決意し、主従4名は苦労の末に越後の直江の浜までたどりついた。しかし人買いの山 岡大夫につかまり、奥方と小笹は船に乗せられ小笹は海に身を投げ、奥方は佐渡に連れて行かれた。安寿と厨子王は別の船に乗せられ、丹後由良湊の長者である山椒太夫に売り渡され、山椒大夫の屋敷に連れて行かれた。

山椒大夫のもとで安寿と厨子王は酷使され、厨子王は1日に3荷の柴を刈れ、安寿は1日に3荷の潮汲みをしろ、間があれば藻潮を焼く手伝いをしろ、糸を紡げ、と追使われ、厨子王は柴刈り払う鎌を怨み、姉は潮汲む桶に泣いた。ある日二人は逃げる話をしていたのを聞かれ、安寿は額に十字に焼きごてを当てられた。その痛みに耐えながら守り本尊の地蔵尊に祈ると、不思議に痛みは消え、額の傷も消えた。

ある日、安寿は、守り本尊の地蔵尊を弟厨子王にあたえ、一人で逃げることを勧め、自ずからは残り厨子王の逃げる手引きをした。厨子王は姉を気遣いながらも逃げおうせたが、安寿は火責め水責めに苛み殺された。

厨子王は丹後の国分寺に逃げ込み、寺僧にたすけられ、京都七条朱雀の権現堂に送られ、さらにまた摂津の天王寺に寄食するうちに、梅津某の養子となり、数年後、18歳の時に名も政隆と改め、大炊介に任ぜられ朝廷に仕える身となった。

そしてついに一家没落の経緯を朝廷に奏上することができ、判官政氏の罪はゆるされ、旧国をあたえられ、讒言者の領地は没収され、政隆に下賜された。政隆は父を討った逆臣の追討を朝廷に願い、兵3千を与えられ、その兵を引き連れて岩城の地に戻り、遂に逆臣たちを塩谷城で討ち取り京に戻った。

政隆はその後、丹後、越後、佐渡のなかで若干の土地を得たいと願い出て許され、領主となって丹後に行き、ねんごろに国分寺の僧侶にむくい、山椒大夫を鋸引きにしてこれを殺し、越後で山岡太夫を殺した。人買いを禁じ善政を行う一方、佐渡に渡り母をたずねた。

あるとき片辺鹿野浦で、一人の盲目の女が鳥追い唄をうたっているのにめぐりあった。「あんじゅ恋しやホーラホイ ずしおう恋しやホーラホイ」。政隆はこれぞ母と知り駆け寄りすがりついた。うれし涙に霊しくも母の眼は開き、政隆は母を連れ戻り、孝養を尽くしたと云う。政隆は老後は岩城に戻り、平和な生活を送ったと云う。