2014/01/22

 

国道6号線は、思った以上に車の通りは多いが、どうやらその多くは、除染や東電の関係者の車のようだ。

広野町を過ぎたあたりから周辺の様子が変わり始めた。この地はJR常磐線が走り、広野駅構内には「今は山中、今は浜…」の動揺「汽車」の歌碑が建っていた。その中の「広野原」の地で、一面の水田が広がっていた。しかし今そこは、稲作ができるわけもなく、黒い大きな袋が、三重ほどに重ねられ、びっしりと並んでいる。除染で出た廃棄物のようだ。この廃棄物は黒い袋に入れられたまま、この先の、耕作が不可能になった見渡す限りの田畑に積み上げられている。

国道6号線は、原発事故という思いがけない「需要」によって、車の往来はそれなりにあり、見た感じでは、震災前とさほど変わらないようだ。しかし何か違和感がある。走っている内に、閉じられた無人のレストランがあり、その駐車場跡に車を停めた。周りを見渡し、その違和感の原因がわかった。

駐車場の舗装の隙間から雑草が伸び、すでに人間の背丈の半分ほどになっている。国道の両サイドの歩道も同様で、すでに歩いて通るには難儀なほどに雑草が生い茂っている。震災前は、昼食時などは、この駐車場にも車の出入りが多くあり、両サイドの歩道も、それなりに地元の方々が行き交っていたのだろう。しかし今はそれらの人間の生活感がまるでないのだ。

私の住む仙台も、地震でそれなりの被害を受けた家屋も多かった、しかしそれでも、それらの家屋は修繕し、あるいは建て替えをし、それなりに人の暮らしは戻っている。しかしこの地のレストランは、少し手を加えれば元の姿に戻るのだろうが、しかしこの地での原発事故は、建物ではない、人の生活そのものを奪ってしまったのだ。

この地の国道6号線は、震災前から何らかの違和感を覚えていた。それはパチンコ屋が多くあり、またJビレッジやテニスコートなど、この地に住まう方々の人口に対して過大な施設が多かったことだ。もちろんそれは、原発に依存するところが多かったことからのものだろう。原発事故が、それらの「贅沢」な施設を奪ってしまったのはやむを得ないことなのだろうが、それに倍加し、この地の生活も文化も歴史もすべて奪ってしまっているのは、理不尽としか言いようがない。