2014/01/22

 

国道6号線を北上し富岡町に入った。富岡町は原発事故後、放射線量が高く、全町避難地域になり、郡山市に仮役場を設けているはずだ。この時期、避難指示が解除になっているかどうかは不明だが、通行止めにはなってはおらず、恐る々市街地へ車を乗り入れた。

ある程度予想はしていたものの、その町の様子は異様だった。道は通れるものの、本来の道の重要な役割である人の往来がまるでないのだ。市街地の両サイドに並ぶ商店街の建物の多くは、住民が避難したときそのままの状態で、中には盗難にあったのかもしれない、ドアやガラスが破られた状態になっているものもあった。

私の住む仙台は、被災したとはいえ、復興中の無人の沿岸部であっても、それなりに復興に向けた時間の流れは感じるのだが、この地では全く時間が停止している状態だ。地震で崩れた建物も撤去されずにそのまま残っている。震災からの時間の経過を感じるのは、歩道の敷石の隙間から延びている雑草のたくましさだけだ。

この地の地震や津波による直接的な被害は、南三陸地域の被害に比べればはるかに少なかったはずだ。しかしこの地の原発事故による被害は、これまでとは全く異質のものだ。これまでも日本は地震や津波により、大きな被害を出しながら、その都度立ち上がってきた。しかしこの地の時間は止まったままで、無人のこの地に人々の希望の笑顔は見られない。空は澄み切った青空でありながら、かつては目に見えずとも人々を守ってきた大気は、今はまだ放射線を含み狂暴なのだ。

原発の町の隣接地であるこの町も、原発により、それなりに経済的な恩恵は被っていたかもしれない。しかし事故による被害はあまりにも大きい。幸いなことに、原発事故での直接的な犠牲者はいなかった。しかし生活の場所を奪われ、戻ることも出来ない中で希望を失い、自ら命を絶った方々も多かったようだ。この地を去った方々が、早く戻れるように、あるいは新たな地で新しい希望が見つかるように祈らずにはいられなかった。