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宮城県涌谷町字龍渕寺…見龍寺

 

見龍寺は涌谷伊達家歴代の墓所として宗重等代々の廟所がある。その中で、見龍院霊屋は、四代伊達安芸宗重の霊屋で、棟札に寛文13年(1673)上棟とある。大きさ4.09m四方、屋根は宝形造銅板葺。室内は当時の霊屋遺構の中では珍しい石敷で、奥の壇上に宗重の木像が安置されている。また、見龍院内部にある「尽忠」の額は宗重の忠勤を讃え、綱村自らの筆と伝えられている。

宗重夫人の長厳院霊屋が寄り添うように並び、内部には夫人と、亘理元宗の兄の綱宗の木像が安置されている。その他、五代定元の本源院霊屋、定元夫人の宝台院霊屋、六代村元の玄珠院霊屋が墓域に建ち、また七代以降の墓石が立つ。門前の石造五重塔、水盤、盥石は宝前に供えたもので、霊屋とほぼ同時代のものである。

見龍寺はもと円同寺と称し、頽廃していたものを天正19年(1591)亘理重宗が涌谷に移った時、位牌寺として再興した禅寺である。

伊達安芸宗重は、仙台藩のお家騒動の寛文事件の中心人物として有名である。

寛文事件は、万治3年(1660)、仙台藩三代藩主伊達綱宗(忠宗六男)が、その不行跡を幕府に咎められて逼塞したことに端を発する。巷間、伊達綱宗の不行跡は「吉原での遊女遊び」や「酒乱」と伝わるが、高尾大夫の身請けや吊るし斬りなどは俗説とされる。大老酒井雅楽頭忠清による大藩取り潰し政策に関する計略に嵌っただけだとする説もある。

綱宗の跡は、伊達兵部宗勝(一関藩主、政宗十男)、田村右京宗良(岩沼藩主、忠宗三男)の両名を後見とし、幼い嫡男の伊達亀千代(後の伊達綱村)を藩主に据えた。寛文5年(1665)、登米伊達式部宗倫(忠宗五男)と涌谷伊達安芸宗重の間で領地争いが起こった。この争いのさなか、藩主の亀千代が、寛文6年(1666)寛文8年(1668)と二度にわたり毒殺されそうになった。これらは、伊達兵部が企てたこととも伝えられる。

寛文9年(1669)、登米・涌谷の領土問題は一応決着したが、伊達兵部が領土問題に介入し、伊達安芸に不利な判定を下した。これに伊達安芸は憤慨し、その非を糾すように藩に要求したが伊達兵部はこの要求を拒否した。伊達安芸は、茂庭周防良元、片倉小十郎景長、が停めたがそれを聞き入れず、幕府に訴えを起こした。

寛文11年(1671)、伊達安芸は、大老酒井雅楽頭忠清邸にて伊達家の問題について裁定を仰ごうとしたが、伊達兵部側の原田甲斐宗輔が刃傷に及び、伊達安芸、柴田外記は慙死し、原田甲斐はその場で討ち取られた。

この事件は、関係者の殆どが死亡したため、その真相は定かではなく、また仙台藩もお構い無しとなった。巷間伝えられるところによれば、伊達兵部は酒井雅楽頭忠清の支持を背景として、自分の子息を仙台藩主にしようとして亀千代に毒を盛ったが果たせず、後には、一関伊達家三十万石、立花家、片倉家、田村家で残りの三十二万石を分割という案が密約されていたとも伝わる。

また、原田甲斐は、伊達兵部派として権力を握ろうとした大逆臣とされているが、山本周五郎の「樅の木は残った」では、伊達兵部派のふりをして、自らスケープゴートとなり藩の為に働いた忠臣との説をとっている。しかしその真相は、闇の中である。

結果として、原田甲斐は大逆臣として一族は誅され原田家は断絶、伊達兵部及びその子息は流罪、田村右京亮は閉門となった。

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