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宮城県涌谷町涌谷字下町

 

南北朝時代に奥州探題として下向した大崎氏の一族であり家臣であった涌谷氏が居していたと伝えられる。創建の時期は明らかではないが、永享3年(1431)頃と思われる。涌谷氏は大崎氏初代家兼の三男彦五郎が百々美濃守を称し、さらにその次男が涌谷美濃守を称したのがその祖であるとも、大崎氏五代満持の弟高詮を百々氏の祖とし、その次男直信を涌谷氏の祖とするとも云われている。

大崎氏は豊臣秀吉の小田原征伐に参加しなかった為、天正18年(1590)に滅ぼされ、涌谷氏もこれと運命を共にした。その後一時豊臣秀吉の家臣木村氏がこの地方を支配するが、葛西大崎一揆平定後は伊達領となり亘理氏が入部した。

徳川家康による天下平定後は、元和元年(1615)の 「一国一城令」 により一国又は一藩に一城が原則となり、全国で多くの城郭が破却された。然し領地が広く家臣も多い大藩には支城制を敷く特例が認められ、仙台藩では、主城である仙台城と、白石城の2城が許され、そのほか21ヶ所の「要害」が築かれた。涌谷城を近世城郭として整備したのは2代重守の時で、3代定宗に至って本格的な城郭として完成した。この頃には伊達姓を許され、2万石を領する事となった。

4代伊達安芸宗重の時、領内の所領争いに端を発し、幕府への訴訟にまで及ぶ勢力抗争に拡大する事件が発生した。俗に「伊達騒動」と呼ばれる寛文事件で、伊達安芸宗重はこの事件の一方の中心人物である。これは後の伊達藩政にも大きな影響を与え、後々迄語り継がれた。

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