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宮城県大崎市古川大崎字地蔵殿

震災前取材

この地蔵尊には、大崎氏滅亡に関わる伝承がある。

名生城落城の折、大崎十三代、大崎義隆は具足をつけて馬で落ち延びる途中、下伏見折橋にさしかかったとき、馬が足を折り川に落馬した。そのとき近くの松の木に鎧をかけて、馬を繋いだという。

葦が一面に生えたぬかる原野の南に、こんもりと繁った森があり、そこにたどり着いた義隆は、この地を最後と定め自決したという。

後に、村人達はこれを哀れに思い、義隆が日頃子供達を可愛がっていたことから、木彫りの地蔵をつくり、子供達が丈夫に育つようにとの祈りも込めて祀ったと言う。

この伝承における「名生城落城」と大崎義隆の「自決」に当たる史実が何なのかは今のところ定かではない。

一説によれば、所領を没収されたあとの大崎義隆は、石田三成を頼って京都に上り大崎氏再興をはかった。しかし、大崎、葛西一揆により、それもかなわぬものとなり、旧大崎領は伊達政宗の支配するところとなった。その後の義隆は豊臣秀吉から上杉景勝付を命ぜられ、慶長8年(1603)、会津で没したとも伝えられる。義隆の子息たちは南部氏、最上氏などに仕えたことが系図からうかがわれるという。