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宮城県大崎市古川新田字南構

 

城主は新井田刑部少輔義景。「仙台領古城書上」によると、東西30間、南北40間とある。規模は小さく、城と言うよりは館と言うのがふさわしい平城。外堀と内堀とで二重に囲まれていたと思われ、現在もわずかにその遺構が残る。

城主の新井田刑部少輔義景は、大崎四家老の一人、中新田狼塚(おいのつか)城主、里美紀伊義成の子として生まれた。天性の美少年であったと伝えられ、主君の大崎義隆のに小姓として仕え、寵愛をほしいままにした。

しかし、その寵愛は伊庭野惣八郎に奪われ、新井田義景は天正14年(1586)失脚する。その座を奪われた新井田義景は、主君の大崎義隆を強引にこの新井田城に軟禁した。

このことが発端になり、大崎の家臣は二つに割れ騒乱が起こった。岩手沢(後の岩出山)の氏家氏が、伊達政宗に救援を求めたことから、この争いは伊達氏と大崎氏の争いに発展し大崎合戦が起こった。

大崎氏はこの合戦に勝利したが、結果的には伊達氏が大崎地方での覇権を確立することになった。