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宮城県栗原市金成沢辺字寺沢

震災前取材

 

別名:臥牛館

正治年間(1199-1201)に葛西氏家臣の二階堂常信は、衣川よりこの地に移り館を築いた。以後沢辺氏を名乗りこの館を居館とした。以後4代にわたり隣接する大崎氏に備えたが、その後大崎氏に攻略されたものかこの地は大崎領になったため、沢辺氏は他所へ移った。天正4年(1576)、大崎葛西合戦の結果、沢辺館は再び葛西氏の所領となり、十二代沢辺肥前守重光が館主に任ぜられ、後三代にわたり居住した。

その後、天正18年(1590)、秀吉の奥州仕置により、葛西氏、大崎氏は滅亡したが、沢辺新左衛門は伊達氏に仕えた。沢辺館は、この頃廃城になったと考えられるが、新左衛門の弟藤兵衛が帰農し代々居住したと伝えられる。

館跡は、東西130m、南北250mが城域で、比高約35mの丘陵に築かれていた。東西約15m、南北約25mの本郭には土塁跡、その北東に細長い二の丸があり、ここには経塚がある。西側台地は根小屋と称し、家臣たちの住居跡があった。北側は崖で、三迫川が流れ、南側は丘陵で、かつては二条の空掘跡があった。