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宮城県石巻市山下町…禅昌寺境内

震災前取材

禅昌寺にある若宮丸の供養碑は、寛政11年(1799)に、石巻裏町の米澤屋平之丞の持ち舟である若宮丸が遭難し、乗組員ともに行方不明となり、生死不明の乗組員の七回忌供養のために建立されたもの。供養碑は、平成元年(1989)、庭園を直していたときに、石橋の土台になっていたのが発見され、改めて立て直された。

若宮丸は、寛政5年(1793)11月、沖船頭平兵衛以下16人が乗り組み、米1100石を積んで石巻を出航して江戸に向った。しかし塩屋崎(福島県いわき市)において悪天候に遭い、舵も失い、帆柱も失い漂流し、翌年5月、アリューシャン列島の小島のオンデレィッケ島に漂着した。ここでロシア船に助けられ、シベリアのイルクーツクに送られた。

乗組員は、イルクーツクに7年間滞在していたが、日本との通商を望んでいたロシアは、乗組員を首都のペテルブルグに呼び出し、帰国を希望した津太夫、左平、儀平、太十郎の4人を日本に帰国させることになった。

4人を乗せたロシア船は、主都近くのクロンシュタットを出航し、デンマークのコペンハーゲン、イギリスのファルマス港、サンタカタリナ島を経て大西洋を渡り、マゼラン海峡を抜けて南太平洋のマルケサス諸島、カムチャッカのペトロパブロフスタ港などに寄港し、約1年3ヶ月に及ぶ航海を経て、文化元年(1804)9月帰国した。

奇しくもこれは、日本人の初めての世界一周となったが、帰国した4人に対する鎖国下の日本は冷たく、幕府の厳しい取調べを受けた。その後4人は仙台藩に引き渡され 、仙台藩では、蘭学者の大槻玄沢が詳細な聞き取り調査を行い、「環海異聞」をまとめた。

太十郎は故郷にもどり間もなく死亡し、その半年後、儀平もあとを追うようにして没した。津太夫、左平もロシアでのことをあまり多くは語らなかったのだろう、その後の消息は定かではない。