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宮城県大崎市松山千石字本丸

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別名:松山城、松山要害

千石城の創建はよく分かっていないが,「茂庭氏記録」によると、遠藤盛遠(文覚上人)が構築したという伝承があるが定かではない。遠藤氏は応永8年(1401)、2代盛継が志田、玉造、加美、三郡奉行として任ぜられ松山に居住したのが最初で、以後200年間 十七代高康まで居住していた。

十五代光定は大崎氏の内訌に乗じて古川城を攻め、天正16年(1588)の大崎合戦の折には、伊達勢はこの千石城を拠点にした。千石城は鳴瀬川を挟んで大崎氏と対峙しており、秀吉の奥州仕置の後、大崎氏が所領没収になって大崎・葛西一揆が起こった際にも。政宗自らこの千石城に入っているなど、伊達側の対大崎氏最前線として千石城は拠点になっていたようである。

一揆平定後、遠藤氏は天正19年(1591)、登米郡石森村(現中田町)に移封され、石川昭光が慶長3年(1598)まで在城し、その後古内重直が慶長8年(1603)まで居館とした。慶長8年からは茂庭良元が松山の領主となり、千石城を修復して三の丸に居住したが、手狭であることを理由に千石城の西側に上野館を築き、下屋敷とした。慶安4年(1651)、良元は隠居して上野館に移り、その子定元は千石城の三の丸に移ったが、明暦3年(1657)には定元も上野館に居を移し、千石城三の丸には留守居として家臣を置くだけとなった。

複雑な谷と堀切による防備の、尾根上に郭を配した連郭式の山城で、城跡は現在「御本丸公園」になっており、三の丸跡はコスモス園になっている。北側が大手口だったようで、北側から上ると、正面に三の丸の切岸になる。この上の平場が三の丸跡で、ここは結構広い。東側にも尾根上に一段低い平場があり、ここも郭の一つと思われる。奥に進むと二の丸跡があるが、ここは二段の平場が続き比較的狭い。二の丸奥には、本郭との間に堀切があり、橋がかけられている。本郭の平場に展望台が設けられているが以外に狭い。

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