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宮城県大崎市田尻大沢字百々一

 

別名:鶴城

百々(どど)城は、築城主、時期など詳細は定かではないが、明応8年(1499)には、大崎氏の城としてその名前が現れる。戦国期の城主は大崎氏の一族の百々氏で、百々左京亮隆元の名がある。

百々氏は、奥州探題大崎氏の一族で、天文3年(1534)の大崎内訌の際は、大崎義直に与している。五代隆元の代には禄高4千石を領し、第十四代大崎義隆の重臣として百々城を守護していた。天正16年(1588)の大崎合戦の際には、百々左京が師山城に籠もり伊達勢を迎え撃った。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置により大崎氏は没落し、この地一帯は、秀吉の家臣の木村氏に与えられた。翌天正19年(1591)、隆元は大崎葛西一揆の物頭として古川城に篭り討ち死にした。

その後、この地が伊達政宗に与えられると、亘理より亘理元宗が移封され、文禄2年(1593)に亘理氏も涌谷に移り、その家臣の長谷景重が入った。その後長谷氏も涌谷に移り、城は廃城となった。

城の配置が鶴の形に似ていたことから、また城の守護神として鶴をいけにえにしたことから、鶴城とも呼ばれている。

城は、比高約30mほどの馬蹄形の丘陵上にあり、東西約230m、南北約300mの規模を有する。二股に分かれた中心部が本郭跡で、頂部から大小数段の平場が置かれている。西側の尾根上に、三の郭、二の郭が配され、東側の尾根は城壁の役割を持っていたようだ。北へ延びる細尾根は大きな堀切によって分断されている。

1 thought on “百々城跡

  1. 私こと、文禄2年(1593年)、政宗の命により亘理元宗が涌谷城に移封された後、百々城を預かった長谷修理亮景重の子孫に当たる者です。家伝並びに涌谷町にある見龍寺(涌谷伊達家菩提寺。「見龍」は伊達安芸公の諡)の過去帳には、亘理元宗が涌谷城を拝するまで同城の主は長谷家であり、亘理家の臣下となって百々城に移った後も暫くは頭目である亘理氏(涌谷伊達家当主)より俸禄が高い世代を数えました。時代は降って宝暦11年(1761年)分限帳には、「御一家 長谷三郎左衛門 18貫(180石)下屋敷大沢之百々家中除屋敷十二件并御預山在、分家 長谷孫右衛門 14貫(140石)御裏座三番御呼懸」、天保八年九月調涌谷藩士名簿には同じく御一家 長谷三郎左衛門(三郎左衛門の名前は襲名し代々続いたようです。)下屋敷 百々村とあります。続く安政4年涌谷藩士籍調にある長谷伊織三郎左衛門になると、大沢村百々の下屋敷。同じく大沢村と小塩村に御預山の他、散田屋敷を小塩村に拝しました。この長谷伊織三郎左衛門の妹「志麻」が私の大祖母に当たり、涌谷伊達家大番組頭別格騎馬御免 石川定之進と結婚。子どもに恵まれなかった故、御裏座二番御呼懸并大工棟梁組頭 俸禄5貫(50石)約料3貫 竹中甚蔵の次男(泰治)を養子に入れ家督相続。泰治は名を「杏庵」に改め元治元年より横浜外国人居留地でヘボン夫妻(ヘボン式英語表記発明者にして現在の明治学院大学の創始者)に英語と西洋医学を修学。慶応3年(1867年)の勘定吟味役 小野友五郎を全権とする第5次遣米使節団に医師兼仙台藩(実際は涌谷伊達家の西南の役を意識した兵制改革に伴う武器[新式のスペンサー銃、野砲等2500両分])の買付け。明治以降は、西洋医として初代遠田郡医(宮城県令)、初代遠田郡医会長を務めました。話は外れますが、水沢伊達家世医にして初代台湾民政長官・内務大臣・帝都鉄道院総裁・初代満鉄総裁・東京市長・関東大震災後に設置された帝都復興院総裁を歴任した後藤新平は杏庵の愛弟子に当たります。

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