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宮城県大和町宮床字大椚

震災前取材

宮床伊達御廟は、宮床伊達家から出た仙台藩五代藩主伊達吉村により整備造営された。墓所は、戦国期の伊達家の葬法を思わせるもので、土塁、枡形が築かれ、小さいながら山城の様相を持っている。

仙台藩二代藩主伊達忠宗の八男の宗房は、田手氏の養子となったが、その後一門に列し伊達姓を許され、宮床伊達家の祖となった。

寛文11年(1671)の伊達騒動以降、仙台藩五代藩主伊達綱村は自ずから政務を執り善政を敷いたが、後半は財政の悪化を招き、またその専制政治に対し伊達一族が反発し、家臣団に隠居を迫られるなどしていた。

綱村は、嫡男の扇千代が早世したために、宮床の伊達宗房の長男の吉村を養子にしており、元禄16年(1703)吉村に跡を譲り隠居した。

吉村は藩の財政再建のために買米仕法を再編強化し、農民から余剰米を供出させ江戸に廻漕して利益を上げるなどして、藩財政を立て直した。

宮床伊達家は、この地に1万8千石を知行し、田手岡の館に居し、明治期にいたるまでこの地一帯を領した。